2018年2月20日火曜日

防府の町歩き

夕食の時に朝食は和食にするか洋食にするかを聞いてくれていました。
四人とも洋食にしました(^_^)b
泊まったホテルは「湯田温泉 ユウベルホテル松政」です。
従業員のみなさんの対応が笑顔でよかったです(^_^)b
父が交通社で決めてきました。
σ(^_^;だけ先にホテルを出ました。
中原中也記念館
この記念館は平成6年(1994年)2月、郷土が生んだ詩人中原中也の業績を記念して、その生誕の地に開館した。
日本の近代文学における代表的な詩人中原中也は、ここで産声をあげ、この地から市内の小学校と中学校に通ったのである。
詩人の生家はこのあたりにかなり広い敷地を持つ大きな医院であった。
その建物と住居とは昭和47年(1972年)5月の火事で茶室など一部を残して焼失している。
現在、この記念館が建っている土地は、その広大な生家跡の一部である。
火事の間、中也の自筆の原稿や遺品などの貴重な品々は、実弟の故中原思郎氏をはじめ遺族の決死の作業によって、運び出された。
その後もこれら遺品や遺稿は、遺族の手で大切に保存されてきた。
この記念館を開設することができたのも、資料の散逸を防いだ中原家の努力に負うところが大きい。
中原中也記念館の建設は、中也の詩を愛する人々の長年にわたる願いであった。
地元の熱意も加わり、没後57年を経てようやく、縁の深いこの地に中原中也記念館を設立することができた。
帰郷を望みながら果たせず、鎌倉で没した中也も、これで故郷に帰ることができたといえよう。
ゆだおんせん 湯田温泉」の文字が懐かしい右から書かれている(^。^)
これまた懐かしい!
直角に近い座席(^^ )
新山口駅で乗り換えました。
防府駅にある立ち食いそばで「蓮根天そば」をいただきました。
これから先、大阪のように食べ物屋さんがあるとは限らないので…
ちなみに「かけうどん」は、320円なんですが、
「学割うどん」が270円だった(^_-)
コインロッカーにリュックを入れて
駅の観光案内所で「防府観光早わかりMAP」をもらって町歩きをすることにしました。
レンタサイクルもあるのですが、山頭火の銅像を見ていると歩きたくなる(^_-)
種田山頭火生家跡
 自由律俳人種田山頭火(本名正一)は明治15年、大地主の長男としてこの地 防府市八王子二丁目十三に生まれました。
 早稲田大学を病気のため中退帰郷。
のち、市内大道にて父と酒造業を営む。
かたわら、荻原井泉水(せいせんすい)に師事し自由律俳句を学ぶが、
家業に失敗して妻子を連れて熊本に移った。
 大正14年(44歳)出家し、熊本県植木町「味取(みとり)観音堂」の堂守となるも
まもなく飄然(ひょうぜん)と行乞流転の全国行脚の俳人となった。
分け入っても分け入っても青い山
 昭和7年、7年間の長い漂泊ののち、小郡町に「其中庵(ごちゅうあん)を結び、
さらに山口市湯田・松山市「一草庵(いっそうあん)」にて没す。
行年59歳
山頭火は、独特の短律俳句を世に残し極めて高い評価を得、今やその知名度は全国的である。
 「雨ふるふるさとははだしであるく
 「うどん供えて母よわたくしもいただきまする
 「うまれた家はあとかたもないほうたる
  平成元年9月
  防府の文化を高める会
護国禅寺(曹洞宗)

県指定有形文化財
  護国寺笠塔婆(ごこくじかさとうば)
     昭和51年11月24日指定
     防府市本橋町820番地
 笠塔婆は、柱状の塔身(とうしん)の上部に笠石をのせた石造塔婆の一種で、
死者の霊をなぐさめるための供養塔です。
平安時代末頃から江戸時代初期頃まで造られていました。
 当寺の笠塔婆は、塔身に刻まれている銘文から鎌倉時代初期の貞永元年(1232年)、
刑部(いさかべ)氏(周防国府の目代であった刑部丞忠康)が中子(なかつこ)の供養のため建立したことがうかがえます。
 全国的にみて、笠塔婆の古いものは塔身のみが残っているものが多いなかで、
これは笠や基礎も当初のままほとんど完全に(宝珠 ほうじゅ・請花 うけばな は後補)残っていて貴重なものです。
さらに、塔身がそのまま埋め込まれているものが多いなかで立派な一段の基礎があり、
そこに梵字(ぼんじ)を入れた意匠や、塔身下辺の巴文を配した装飾など、他に例をみない立派なものです。
 このように、記年銘によって製作年代がよくわかるうえ、
意匠・工作も優れた石造物は県下でも数少ないものの一つです。
  平成6年3月   山口県教育委員会
俳人種田山頭火之墓」と書かれてありました。
左隣は母フサの墓だそうですが…

● ● ● ●

(三田尻)港の波打ち際に浄土真宗の南溟山明覚(みょうかく)寺があって、そこが種田家の菩提寺である。
 山頭火は母が亡くなったのち祖母に養育されたが、彼女の口癖が「業(ごふ)やれ業やれ」という呟きだったそうだ。
それだけに日ごろは熱心な真宗の門徒で、幼年の山頭火を連れて明覚寺にお参りしたこともあった。
そして母の遺骨を本山に納めるため、父と祖母と山頭火の三人は西本願寺まで赴いたこともあり、京都では八鉢旅館に泊まったという。
(『山頭火 アルバム 山頭火文庫別巻』春陽堂書店 平成2年)
町歩きの参考にした「防府観光早わかりMAP」には「種田山頭火顕彰の墓」とか書かれていました。

また、旅に携行した本には

遺骨は、ふるさと防府の、護国寺裏の共同墓地に葬られた。
(『山頭火』石寒太 文春文庫 1995年)

2001年の展示会で購入した本には、

近親者の見た山頭火 和田健(山口県詩人懇談会顧問)」
(……)
 それから(妹の)シヅさんは、お骨は防府と熊本に分けたことを話された。
当時はまだ、山頭火の妻サキノは健在だった。
昭和37年、熊本市の安国禅寺に(息子の)健さんが新しく建てた墓所に分骨は納められた。
一度は別れたはずのサキノさんも、やがてその墓に入る。
(……)
(『生誕百二十年記念 風と雲と酒 今甦る流旅人(さすらいびと)山頭火』毎日新聞社 2001年)
マップを見ながら山頭火の小径(山頭火が通学した道)を歩いて
防府天満宮に着きました。

 宮市というのは、防府天満宮の門前にたつ市場が地名となったところ。
そこは日本最古の天満宮だから古くから繁華であった。
宮市より西へ十数分も歩けば山頭火の生家で、天満宮は幼年のころからの遊び場であった。
(『山頭火 アルバム 山頭火文庫別巻』春陽堂書店 平成2年)
 萩狛犬
 文久2年(1862)に寄進されたこの狛犬は、萩の石工「武林唯昌」とあることから萩狛犬と呼ばれている。
 北野天満宮、太宰府天満宮にも同様の萩狛犬が建立されており、幕末における長州藩での天神信仰の広がりを感じさせる。
北野天満宮の萩狛犬伝説
禁門の変で長州藩は敗走。
その後、京都守護職の会津藩が北野天満宮に鳥居を奉納、
しかし、鳥居の側に奉納されていた萩狛犬を藩士が見つけ
「長州獅子、汝まだ去らざるか」
と、神社に撤去を要求。
実力で倒そうとしたところ、一天にわかにかき曇り雷鳴が響きわたった。
会津藩士は雷神である菅原道真公の祟りと恐れ逃げ帰ったという。
防府天満宮 茶室 芳松庵
 御祭神菅原道真公は、お茶に関する故実を調査研究して正史に著し、
宮廷貴族を始め庶民社会に喫茶の習慣を広められ茶聖菅公と称えられております。
 この茶室は御神忌千百年式年大祭の記念事業として
御祭神の茶徳を顕彰し御神徳の余恵に預かるために建造されました。
 また庭内の一角には勤皇志士達が密議を交わした史蹟「暁天楼」も建立されています。
  防府天満宮社務所
暁天樓(ぎょてんろう)
 暁天樓は、天満宮表参道第一鳥居から東へ半丁、
宮市前小路に営む大旅籠『藤村屋』の建物の一部で、
階下は漬物置場、二階に隠れ座敷をもつ。
 幕末維新激動の際、九代当主藤村孫七が尊皇の志が篤かったので、
高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、品川彌二郎、坂本龍馬等の志士達が、
東奔西走する活動の途次、しばしば投宿し密議を計ったと伝えられ、
近代国家誕生の一端を担った貴重な史跡である。
 この樓は、もと適義樓と呼ばれたが山縣有朋等の発意により
『冥昧中に光明発動する』の意をもって暁天樓と改称された。
大正4年に酒垂山西麓の神苑内に移築されたが、
老朽が甚だしくなり、昭和30年に惜しくも解体された。
 昭和58年秋、藤村屋の後裔、十一代当主で横浜市在住の藤村浩作氏が
この樓との旧縁を偲ばれて暁天樓復元の願主となり巨資を寄進され、
此処、旧圓樂坊跡地に樓の絵図面のままに復元再建したものである。
  昭和58年11月
     防府天満宮社務所
防府天満宮御神木(ほうふてんまんぐうごしんぼく)
防府天満宮境内にはほぼ等間隔に並んでクスの巨木が3本あり、その中心をなすこの楠が御神木です。
樹齢は推定で800年、幹周が5.6m、高さ27.5m、葉張36mの巨木は、樹勢・樹形とも美しく周防一の美楠といわれています。
幕末の志士達をも見守っていたことでしょう。
防府天満宮御神木
  クスノキ科ニッケイ属
  樹齢800年(推定) 幹周5.6m 高さ27.5m 葉張36m
 巨木とは地上から約130cmの幹周が3m以上の樹木(環境省)とされています。
しかしそれだけでは木霊の宿った御神木とは言えません。
御神木とは安易に人の手の入ることなかった超世の力を持った巨樹でなくてはなりません。
 境内にはほぼ等間隔に並んでクスの巨木が3本ありますが、
その中心をなすこの楠は防府天満宮の御神木です。
見上げれば亭々として天にそびえ四方に広がる太枝は大地を覆い、
根張りは太く堂々たる威風を備えて樹勢・樹形とも美しい周防一の美楠の巨樹です。
 そして毛利の戦いや鼓舞した幕末の志士達を目撃した証人です。
人の世を超えて千年の後の世まで私たちを見守る天満宮の生命力溢れる木霊を宿しています。
 もう一度見上げて木精の気を感じて下さい。
   防府天満宮社務所
圓樂坊(えんらくぼう)
 圓樂坊は、大専坊と同じく延喜4年(904)国司土師信貞が『松崎の社』を創建した折、
観道阿闍梨(かんどうあじゃり)を開山として草創されたと伝えられる。
 別当大専坊が年中行事と祈祷を管掌したのに対し、
圓樂坊は執行坊として造営、営繕のことを管掌し、その権勢を大専坊と匹敵していた。
 明治元年、神仏分離令が発せられ、他の坊とともに廃寺となり建物も除却された。
明治40年に天満宮の所有となり、以後、図書館『松崎文庫』、
花神子社参式の調度を収める『花神子調度館』、維新史跡『暁天樓』を建設し現在に至っている。
 古文書によると、この圓樂坊で、天正5年(1587)に細川幽斎が連歌百韻の興行を催したこと、
また、慶長3年(1598)には豊臣家五奉行の一人、石田三成が宿泊したことが記されている。
  昭和58年11月
   防府天満宮社務所
大専坊
防府天満宮の表参道に面した両側には明治維新まで
九つの社坊(西側に大専坊・西林坊・東林坊・密蔵坊・会所坊・東側に円楽坊・等覚坊・乗林坊・千蔵坊)が
立ち並んでいて一山の総号を酒垂山萬福寺と称した。
大専坊はその一山の別当坊で天満宮創建当時の草創と云う。
この坊は弘治3年(1557)毛利元就が大内義長を山口に攻めこれを長府で
自刃せしめて防長両国を平定するまで元就の参謀本部となった。
また尊皇攘夷で激動した幕末にはこの地方を警固する諸隊の屯所となった。
  昭和63年 山口県指定史跡

伊藤博文が幼少の頃、ここに寄宿していたとの記述が回顧録『藤侯実歴』にあります。
予想したよりも参拝者が少なかったのは…
梅が一輪二輪と咲き初めだったからかな?
本殿は銅板茸入母屋造りで、平安時代の優麗繊細な様式を彩りつつ彩色・彫刻等装飾をさけ、
豪華な重層楼門の精緻と対称美を構成する。
社殿造替の社史を繰る と、延喜4年(904)土師信貞創建、
建久6年(1195)俊乗坊重源、東大寺落成のお礼に本殿・廻廊・楼門を造替、
元徳2年(1330)炎上、正平20 年(1365)大内弘世本殿再建、
天授元年(1375)大内弘世拝殿、応永8年(1401)大内盛見三重塔、太鼓楼造営、大永6年(1526)炎上、
享禄 3年(1530)大内義隆再建、のち毛利隆元修造、寛政元年(1789)毛利重就造替、
昭和27年炎上、全国から献資を仰ぎ、巨費をもって昭和38 年楼門を最後に本殿・拝殿・廻廊を完成した。
(「境内案内」)



春風楼
春風楼は十代藩主毛利斎熙(なりひろ)が社頭に五重塔の建立を思い立ち
文政5年(1822)6月大専坊に於いて地鎮供養の祈祷をし釿(ちょうな)始めの儀を行ったが
資金調達中天保2年(1831)不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った
その後塔の設計を現在の重層の楼閣様式へ変更して明治6年(1873)に完工した
この楼の床下の木組は文政年間着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組物を使用したもので当時の面影を偲ぶに充分である
この楼上からの眺望は四季折々誠に絶景で春風楼の名にふさわしい
(説明板より)
天満宮境内の春風楼(しゅんぷうろう)は通称通夜(つや)堂とよばれる。
江戸時代後期、宮市(みやいち)の疲弊(ひへい)がはなはだしく、
10代藩主斉凞(なりひろ)はその救済策として天満宮の例祭に分徳(ぶんとく)芝居や軽業(かるわざ)芝居などを許可したり、
公米銀を融資したりしたが効果が十分でなかった。
そこで五重塔を建てれば人も集まり町も栄えるだろうとの考えから、1822(文政5)年に着工した。
しかし資金不足のため工事の途中から2層の楼閣様式に急遽設計変更してようやく明治に入って完成した。
床下の木組みは塔の1層めの軒下の組み物を使ったもので、もし五重塔が完成していれば、日本一、二の豪壮な塔となっていたであろう。
なおこの楼からは防府市街が眺望できるだけでなく、
都市の歴史的発展の過程、すなわち港町三田尻(みたじり)と眼下の鳥居前宮市が、
1898(明治31)年3月17日の鉄道の開通(三田尻駅)で、天神町筋が伸び、双子町に結合したものであることが観察できる。
(『山口県の歴史散歩(旧版)』1993年)


街を歩きながら天神山(酒垂山)がいつも目に入っていました(^-^)


お昼にカレーをいただきました。
お箸がついていた!
福神漬けとサラダを食べるためだと思うけど
こんな心遣いがよりいっそう美味しくさせてくれました♪

「天とて屋かふぇ」
歴史の道 萩往還
立市・らんかん橋
 立市は、天満宮の鳥居前町として最も古くから発達した宮市発祥の地であります。
 参勤交代の制により、萩と三田尻を結ぶ街道が整えられた江戸時代には、三田尻の御船倉(おふねぐら)・御茶屋(おちゃや)へ向かう「萩往還(はぎおうかん)」の道筋にあたり、人の通りが絶えることがないほど、商(あきな)いなども多く、周防第一の通りとして、たいへんにぎやかな町でありました。
 立市の北角(旧山陽道と交差する一の鳥居の前)には、高札場(こうさつば)や天下御物送(てんかおものおく)り番所がおかれていました。
 150mばかり南に下った、このあたりは、「らんかん橋」ともよばれ、迫戸(せばと)川を渡る橋が昔の面影を今に伝えています。
  平成22年3月 防府市教育委員会

ここに来る前にあった解説には

歴史の道 萩往還 総延長約53キロメートル
 萩往還は、江戸時代のはじめ萩城と毛利氏の水軍根拠地である御舟倉(防府市三田尻)を結ぶ、
参勤交代の道として整備された街道です。
 しかし、中国山地をこえるこのルートには、険しい坂や峠が多く、道行く人たちにとっては苦労の多い旅であったと思われます。
 佐波川左岸の「船本」からここまでは「山口小路」と言われ、道の両側には往還松が植えられていました。
 この地点は、萩往還と山陽道が分れる所で、かつてはT字路でした。
 東に折れると、今市・新町・中町・前小路と続き、中世から鳥居前町として商業が発達した宮市になります。
 萩往還は、天満宮前まで山陽道と重複しています。
火曜日は休館日でした(T^T)
〝マイマイ新子のふるさと「ほうふ昭和館」〟
父と妹、姪が待っている新山口駅に向かいました。
帰りは、父が旅行社の方に勧められた「さくら」に乗りました。
座席が横四列なのでゆったりした車内でした(o^^o)
週間予報などを見ていたときは、天気があまりよくなかったのに
今回も母さんが天気にしてくれたねと四人で話していました(^-^)