2018年2月19日月曜日

湯田温泉へ(^-^)

姪が休みを取れたので父と妹と四人でのぞみ11号に乗りました♪
目的地とホテルは父が旅行社に出向き決めてきました(^_^)b

新山口駅から普通電車に乗り換えて着いた駅には…
白狐が迎えてくれました(^。^)
ホテルに荷物を預けてお昼を食べることにしました(^。^)
下関発祥の瓦そばだそうです。
妹と姪と三人前です(^_-)
父は別メニュー(温うどん)を食べていました。
ちょっとあるいて「狐の足あと」に寄って珈琲タイム♪
期間限定の「中也の帽子と雛祭りのバウムクーヘン」などをいただきました(^_^)b
向かいは「中原中也誕生之地」なのですが
月曜日は休館日なので明日見学することに
σ(^_^;は、三人と別れててくてく歩いて井上公園を訪ねました。
公園にある七卿遺蹟之碑は
中原中也の父・謙助が「湯田七卿遺蹟保存会」の幹事発起人として尽力したそうです。
(大内文化まちづくり 企画展「中也の父・謙助」)

井上公園
 この公園は、明治維新の大業推進に功があった井上馨侯の生誕地として知られ、
近隣住民や観光客の憩いの場所として広く親しまれている歴史公園です。
 もともとは南半分が井上家屋敷地で、北半分が大正時代に整備された七卿碑公園でした。
それを昭和の初めに当時の山口町が引き受け「高田園(高田公園)」として、一体的に管理するようになりました。
その後、平成24年3月に「井上公園」と改名されました。
 園内には、井上馨侯の銅像や、文久3年(1863年)の政変で、
京都から長州に逃れた七卿のひとり三条実美が寄宿した何遠亭をイメージした休憩所や、
かん難辛苦のなかに国事につくした功績を記念して建てられた七卿の碑があります。
このほか、中原中也の詩碑や、種田山頭火の句碑が建っています。

井上馨(いのうえ かおる 1836〜1915)」(国立国会図書館)

タクシーの運転手さんがホテルへの車中で
井上馨が袖解橋で斬りつけられ瀕死の重傷を負った時に
畳針で傷を縫合したことを教えてくれました(麻酔なし)。
その井上馨を治療したのが所郁太郎(右側の顕彰碑)

所 郁太郎顕彰碑
 所 郁太郎は天保九年 美濃国赤坂に生れた
長じて京都に出 医学を学び さらに大坂の適塾で西洋医学・洋学を修め 学・術ともに精進した
京都で医院を開いたが 長州藩の京都邸の近くであったので 藩の邸内医員を委嘱された
尊皇の志が篤く 長州藩士と深く交って時勢を通観し 医業をやめて国事に尽くそうとし長州に来住した
下関の攘夷戦にも参加し
七卿西下に降してはその医員を命ぜられた
 元治元年9月 井上馨の袖解橋の遭難には ただちに馳せつけ 
数ヵ所の刀傷を50数針縫い合わせる大手術をなし 瀕死の井上を奇蹟的に救った
後年の井上の業績を思うとき この所の治療を忘れてはならない
 慶応元年正月 高杉晋作が兵を挙げ 藩の俗論党と戦った時 
所は迎えられて遊撃隊の参謀となり 高杉に協力した
その後幕府の長州征伐に備えて 軍を進めようとした時 にわかに病んで 吉敷の陣中で没した
二十七歳であった
明治になり特旨をもって従四位を贈られた
(大垣市赤坂町本陣公園内の銅像を元に彫刻)
中原中也詩碑

  帰 郷

柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ 
   椽の下では蜘蛛の巣が
   心細さうに揺れてゐる


山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
   路傍
(ばた)の草影が
   あどけない愁みをする


これが私の故里(ふるさと)
さやかに風も吹いてゐる
   心置なく泣かれよと
   年増婦
(としま)の低い声もする

あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ


  解 説
 詩碑の詩句は『山羊の歌』にある「帰郷」から、
中也と親交のあった評論家の小林秀雄と小説家の大岡昇平が選んだ。
碑石は周南市四熊産の黒御影。
碑のデザインは新鋭の彫刻家、志水晴児が設計し自らノミを振るった。
除幕式は昭和40年(1965)6月4日に行われ、
小林、大岡ほか同じく中也と親交のあった評論家の河上徹太郎、小説家・評論家の今日出海も出席した。

 中原中也
    (1907.4.29~1937.10.22)
 山口市湯田温泉に生まれる。
小学生の頃から短歌を詠み文学への情熱は山口の地で育まれた。
16歳で家族を離れ京都、東京へと移り詩人としての道を歩む。
フランス詩から多くを学びランボーの訳詩集も刊行。
1934年に第一詩集『山羊の歌』を出版し詩壇の評価を得る。
晩年鎌倉へ移り、山口への帰郷を望みつつ30年の生涯を閉じた。
第二詩集『在りし日の歌』は死後出版される。
中也の詩は多くの人々に愛誦され、生誕の地には中原中也記念館が建てられた。
龍尾(りゅうび)の手水鉢(ちょうずばち)
 この手水鉢は、古くから井上家にあり、龍の尾の形をしているので、龍尾の手水鉢と呼ばれています。
 三条公らの七卿や明治維新の諸国志士たちが、井上家を訪れたときに使われたものです。
その後、井上侯の東京移住にともない、この手水鉢も他に撮されましたが、
大正のはじめこの地に井上馨侯の銅像がたてられたとき昔をしのぶ由緒あるものとして、再びここに据えられました。
山頭火翁句碑
 酒を愛し、句を求めて半生を行乞行脚の旅に過ごした種田山頭火が、
ここから約五百米東にある龍泉寺上隣の民家の離れ、
四畳一間に小郡・其中庵から移ったのは、
昭和13年11月下旬で、風来居と名付け十か月余り住みました。
 この碑は昭和37年11月3日、文化の日を記念し、
友人の大山澄太氏らの発起により建立されました。
句は「ほろほろ酔うてこの葉ふる」と書いてあり、
碑文は山頭火の自筆を写したものです。
 山頭火は、明治15年(1882)防府市に生まれ、大正14年出家、
昭和15年10月11日松山市で没しました。
瓢簞(ひょうたん)
 この庭園は、大正6年(1917)に造られたもので、
池はその形からひょうたん池と名付けられています。
 地泉を中心として築庭されており、
中心の大きな石は、室町時代中期に大内氏の別邸「築山館」造営の時、
豊後の大友氏から送られたものを、築庭の時ここに移されました。
遠い豊後を恋しがり、雨の依るには泣くということから「夜泣石」といわれています。
何遠亭(かえんてい)跡の碑
 七卿落のとき、井上家の離れを増築し、
三条実美らの宿舎にあてられた所で、これを何遠亭と呼びました。
 何遠亭は全国の勤皇の志士たちが出入りし、
維新回天のための相談が行われたところです。
「何遠」の語は「何の遠きことか之れ有らん」の論語からとったものです。
石段が続くのですが…
中也と歩く湯田温泉マップ」にこんな一文があり、
訪ねたくなったのですp(^-^)q

権現山
湯田温泉街を一望できる。
僕の隠れスポットなんだ。
よく学校をさぼって登ったりしたんだよ。
里帰りをしたときは、息子を肩車して登ったこともあったな。
懐かしい風景を思い出すよ。
今にも転げ落ちそうなんだけど…
この山は標高40mの山で、山頂に熊野権現を祭る熊野神社が存在するため権現山と呼ばれてきました。
詩人・中原中也縁の山としても知られていますし、
大内時代から、江戸時代、更に明治維新を経て今日まで、
600余年の歴史を持つ山口県の名湯である湯田温泉の縁起として、
熊野神社の権現山に棲む狐が痛めた足を湧き水で治療していたことから源泉が発見されたといわれています。
この石段を息子を肩車して登ったんだ(°0°)
脇道にあった鳥居…
温かそうでした(^。^)
好きな句ですが、今まで転記するのはちょっと(^^ゞ

山頭火湯田温泉句碑
酒と旅を愛した行乞(ぎょうこつ)の俳人、種田山頭火はまたこよなく温泉を愛した。
昭和7年秋51歳のとき、小郡の「其中庵(ごちゅうあん)」に庵住してからはよく12キロの道を歩いて湯田温泉にやって来た。
その其中庵も風雨でいたみ、昭和13年11月末、
山頭火は湯田前町竜泉寺の上隣に四畳一間の部屋を見つけて移り住んだ。
風のごとくにやって来たというわけか「風来居」と命名し、
相変らず句作と旅と酒あれば酒に徹すといった日々を送っていたが、
昭和14年初秋に再び行雲流水のことばそのまま遠く四国松山の地へと去って行った。
小郡・湯田に居た間に湯田温泉をよんだ句は多いが、
中でも句集「草木塔」に収められた異色の句

 ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯

はユーモラスでしかも人間みなはだかといった禅味あふれる句として、
ひそかに人口に膾炙(かいしゃ)している。
この碑に彫られた句は山頭火の日記からとった自筆である。
中原中也詩碑
 中原中也は明治40年に湯田の町に生まれた。
この詩は、昭和8年9月の作ではじめ「小唄二編」と題して発表したものですが、
後に「童謡」にしています。
この詩は小学校の国語の本に載用されていて、よく知られた詩です。
碑の文字は中也の自筆の原稿によるものです。

 童 謡

しののめの
よるのうみにて
汽笛鳴る。


こころよ
起きよ
目を醒
(さ)ませ。

しののめの
よるのうみにて
汽笛鳴る。


象の目玉の、
汽笛鳴る。
楽しみにしていた夕食の時間(^。^)
和洋が交互にあって美味しかったです♪
いつもはこんなに食べていないので釜飯は食べきれませんでした(゜o゜;)
でも、最後のデザートを食べる事ができたのは別腹なのかな(^^ゞ

本日のお品書き
オードブル パテ・ド・カンパーニュ
造り 三種盛り
スープ クラムチャウダー
魚料理 オコゼのベーコン巻き 酢味噌ソース
肉料理 牛ロース肉のグリルソース シャルキュティエール
小鍋立 あんこう鍋
食事 釜飯 赤出汁 香の物
水菓子 デザート
食後、腹ごなしにホテルの土産物コーナーをうろうろ
母へのお土産に白狐を買いました。

白狐伝説
昔々、湯田の権現山の麓のお寺の境内に小さな池がありました。
その小池に、毎晩一匹の白狐が傷ついた足をつけにきます。
この様子を見ていた和尚さんが不思議に思いその池の水をすくってみると温かかったのです。
そこで池を深く掘ってみると熱い湯がこんこんと湧き出るとともに、薬師如来の金像があらわれたのです。
この仏像は拝んで湯あみをすると難病も治る「白狐の湯」として評判となり温泉は栄えるようになったそうです。

2 件のコメント:

  1. KAZEさん

    こんばんは
    ようやく春めいてきましたね

    ご家族旅行たくさん歩かれたのですね
    日頃のお散歩で鍛えておられるお父様も
    楽しまれてよかったですね

    夕食とても美味しそうです

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    1. becoさんこんばんは(*^O^*)/
      姪が休みを取れたので父がはりきって温泉を探しましたp(^-^)q
      父が選んだ湯田温泉は中原中也の実家があった所ですし
      少し足を延ばせば山頭火の生家がある防府に行くことができます。
      父は妹と姪にまかせてウロウロしていました(^^ゞ

      夕食は、和食と洋食が適度に混じっていたので
      食べ飽きることなく美味しくいただきました(^_^)b

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