2018年2月10日土曜日

月命日に…

今朝は雨がぽつぽつ降り出したけど、
本降りにはまだ間がありそうなので出かけました。


巻第四(相聞) 786
  大伴宿祢家持、藤原朝臣久須麻呂(ふぢはらのあそみくすまろ)に報贈(ほうぞう)せし歌
春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若(わか)みかも

春雨はますますしきりに降っているのに、梅の花はまだ咲かない。
木が若すぎるからだろうか。
▽藤原久須麻呂は仲麻呂の次男。792までの家持との贈答が、
家持の幼い娘に対する久須麻呂からの求婚を示すものとすると、
4216左注に見える「聟南右大臣家藤原二郎」も久須麻呂のことか。
この「報贈」の歌の前に久須麻呂からの贈歌があったはずだが載せられていない。
歌の「梅の花」は家持の幼い娘の譬えであろう。
(『万葉集(一)
傘をさすほど降りだしたので望遠を諦めて
40年ほど前に購入した50mmマクロレンズ(MF)にしました(^^ゞ
バラの赤い芽がちょこんと出ていました(^-^)
バラの枝の先にある芽(葉)が赤い色なのはなぜですか。
日本植物生理学会「植物Q&A」
ムクノキの実がポツンと残っていました。
母好みし紅梅昏(く)れて忌日暮る  大野林火

【鑑賞】
 この紅梅は庭前のもの。
一本の梅の紅の花が昏れるまで、作者はいく度も紅梅を見たことであろう。
母上が生前に好まれた花であれば、母と暮らした日日のあれこれが、紅梅の花につぶさに重なってくる。
その紅梅の色が夕闇につつまれて、花の色も定かでなくなったころ、
母上の忌日も暮れたことを作者はしみじみとさびしむのである。
「昏れ」「暮る」と、花の昏むことと、日の暮れることの微妙な情感のニュアンスを繰り返し、
重ねて表現しているあたり、作者の俳句のこまやかな抒情性を知ることが出来る。
〔野澤節子〕
(『講談社版 カラー図説日本大歳時記[座右版]』 昭和58年)
臘梅のいつ蕾んだか笑うたか  森 紫苑荘
(『川柳歳時記』奥田白虎編 創元社 昭和58年)
落葉焚くにほひの中にみづからの匂ひをもたず山茶花咲く  大野紅花
(『昭和萬葉集 巻十八 
    高度成長の終焉 昭和48年』講談社 昭和55年)
水仙や美人かうべをいたむらし

清楚可憐な水仙の花の感じを、美人がうつむき加減に思い悩む風情に喩えた句。
(『與謝蕪村集』)
紹介するには遅いようなのですが旧正月は2月16日なので(^^ゞ

親子草(おやこぐさ)とは年毎(ごと)に 古葉(ふるは)ゆづりの若葉かや

 伝二条良基撰『蔵玉(ぞうぎょく)集』(元禄刊本)に
年毎(ごと)にこのごろ落つる親子草人に親しき人や知るらむ」とあるように、
親子草」はユズリハ(交譲木)・ウラジロ(裏白)の異名。
ウラジロもユズリハも新年正月の飾り。
現在、東京を中心に関東一円に広く歌われる正月の童唄に、
お正月がごーざった……何に乗ってごーざった交譲木に乗って ゆずりゆずりごーざった」。
ユズリハは新葉が出ると旧葉が落ちるので、譲葉(ゆずりは)とも親子草ともいう。
正月の祝唄。 
(『山家鳥虫歌 近世諸国民謡集』)

○ ○ ○ ○


今日は、母の月命日。
夕食は、父と妹と三人でお蕎麦屋さんでいただきました。
母は、ちょこちょことおかずがあるのが好きでした(o^^o)
今日も母のおかげだなと思うことがいくつかありました。
母に感謝しながらいただきました。

(2012年2月21日)

母がルーペで覗いているのはバラの赤い芽です(^-^)

Twitterを読んでいて池波正太郎さんのお母さんのエピソードが話題なっていました。
気になって『食卓の情景』を購入して読みました。
そこには祖母と子ども二人を背負って生きるためのエネルギーが書かれていました。

Kazeの母は、一人で食堂などに入ることができませんでした。
母は、息抜きをする時間を持っていたのかな…
祖母がディサービスに行っている間
今、散歩している公園までの往復約8kmを歩いていました。
万歩計が1万歩にならないと1万歩になるまで歩いたと
元気だった頃を懐かしそうに話してくれていました。

● ● ● ●

 最近になって、当時をおもい出しながら、母が、こんなことをいった。
「あのころ、私はつとめが終ると、御徒町(おかちまち)の蛇の目寿司(ずし)へ、よく行ったもんだよ」
「ひとりで?」
「そりゃ、ひとりでさ」
「おれは一度も、つれて行ってもらわなかった」
「だれもつれてなんか行かない。それだけのお金がなかったからね。私ひとりで好きなものを食べていたんだ」
「ひどいじゃないか」
「女ひとりで一家を背負っていたんだ。たまに、好きなおすしでも食べなくちゃあ、はたらけるもんじゃないよ。そのころの私は、蛇の目でおすしをつまむのが、ただひとつのたのしみだったんだからね」
 先(ま)ず、こうしたわけで、大好物のすし一皿を食べることによって、女ひとりが老母と子どもたちを抱えて立ちはたらくエネルギーも生れてくる、ということになる。
 それほどに、
「食べる」
 ということは、たいせつなものなのである。
(『食卓の情景』「母の好物」より)

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