2017年12月28日木曜日

三十三間堂~四条

今日は、蓮華王院三十三間堂にやってきました。

蓮華王院本堂(三十三間堂)
 現在は天台宗妙法院の管理になるお堂で、正式には蓮華王院と言い、
長寛二年(1164)鳥部山麓(現・阿弥陀ヶ峰)にあった
後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。
一度、焼失したが、直に復興に着手し文永三年(1266)に再建。
その後、四度の大修理を経て750年間護持されている。
 長大なお堂は「和様入母屋本瓦葺」で、南北に118メートルあり、
お堂正面の柱間が三十三あることから「三十三間堂」と呼ばれ、
堂内には丈六の千手観音坐像(国宝)を中央に千一体もの観音像(重文)と共に
風神・雷神、観音二十八部衆という三十体の仏像(国宝)が祀られている。
境内の太閤塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの建造物(重文)で、
毎年正月に行われる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の風物詩になっている。
  京都市

(注:案内板などを転記していますが、転記間違いがあると思います。以下同じ)

清盛の建物は鎌倉中期の建長(けんちょう)元(1249)年3月に類焼し、
現在の建物は、文永(ぶんえい)三(1266)年に再建されたものです。
火災のとき運び出せたのは、本尊は首と左手だけ、
また千体のうち156体であったと申します。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
後白河常光院政庁「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」址碑(あとひ)
 法住寺殿は、保元3年(1158)8月、
その皇子・二条天皇に譲位して上皇となった後白河院が
約30年にわたり院政(上皇が天皇に代って政権運営をする特異な政治形態)を行った政庁です。
上皇になると天皇の住う御所とは別の所に専用の“院御所(いんのごしょ)”を造営するのが通例で、
先例の白河・鳥羽の両帝に続き、その度に大規模な土木工事が行われました。
後白河院は譲位直後に御所の造営に着手、
東山の麓から西は鴨川河岸まで、
南北は八条坊門小路(現・東海道線南・大谷高校辺)から六条大路(現・六条通り)に及ぶ広大な地域で、
その地名を取り「法住寺殿」と名付けたのでした。
構内は政治的な施設の「北殿(きたどの)」と“常の御所”と呼ぶ住居に
三十三間堂をはじめとする宗教的堂塔が集中した「南殿(みなみどの)」に分かれ、
東山を背にする丘陵に地中から湧き出たような大建築が甍(いらか)を並べたといいます。
 永暦2年(1161)4月、月明かりの夜に、上皇はここに移り以後20年住まいとします。
しかし、賑わいをみせた院の御所も、寿永2年(1183)11月、
対立するようになった木曽義仲の夜襲にあい焼失しました。
800年の昔に変らぬ姿でこの場所に伝承されてきた三十三間堂は、
その時代をしのぶ稀有(けう)の物証といえるでしょう。
法然塔(ほうねんとう)名号石 みょうごうせき
 元久元年(1204)3月、時の土御門天皇が当院で後白河法皇の13回忌を行った際、
請いをうけた法然上人が音曲に秀でた僧を伴って
「六時礼讃(ろくじらいさん)」という法要を修しました。
この碑は、その遺蹟として「法然上人霊場」にも数えられ、
いまも参拝する方々があります。
上人は“浄土の経文”を書写し、
参集した人々にも紙を分け与えて念仏・写経を勧めたといわれています。
刻まれた「六字の名号」は温雅で素朴ながら力強く、
数多くの法難をのりこえて念仏に専修した上人の人柄が偲ばれるようです。
夜泣せん(酉+泉)
 お堂創建の翌年(1165)6月の7日、ひとりの堂僧が夢のお告げにより発見したという霊泉で
『古今著聞集(ここんちょもんしゅう)』には
「いつも冷たく美味しく飲んでもお腹を痛めることのない“極楽井”でどんなに汲んでも尽きず、
汲まない時も余ることのない不思議な泉だ。」と記されています。
 夜のしじまに水の湧き出す音が人の“すすり泣き”に似ることから“夜泣き”せん(酉+泉)と言われるようになり、
いつの頃からか傍(かたわ)らに地蔵尊が奉られて、
特に幼児の「夜泣き封じ」に功徳があるとして地蔵さまの「前掛け」を持ちかえり
子供の枕に敷けば“夜泣き”が治るとされ、今もそのご利益を求める参拝が続いています。
南大門(みなみだいもん)と太閤塀(たいこうべい)(重要文化財 桃山時代)
 南大門は三間一戸(さんけんいっこ)の八脚門で、
豊臣秀吉が文禄4年(1595)に造立した大仏殿方広寺(現・国立博物館一帯)の南門として築いたものと伝えます。
それに続く築地塀は高さ5.3m、長さ92mの堂々たる建造物で、
瓦に太閤桐の紋様を用いることから「太閤塀」と通称され、
ともに桃山気風にあふれた遺構です。
(南大門は後ほど)
(境内の説明板より 歌川豊春画)

「通(とお)し矢(や)」射場(しゃじょう)
 江戸期、尾張・紀州両藩による通し矢「天下一」の争奪戦は評判となりました。
縁側の柱や軒に残る鉄板は、
雨あられと飛びくる矢からお堂を守るために徳川第三代将軍家光が付加したものです。
 西縁の南端から北端へ、一昼夜24時間、
矢を射つづけるという「大矢数(おおやかず)」は身命を賭けた凄絶な競技で、
江戸時代を通じて、約8百人がこれに挑み、
時々のおもいをのせて放たれた矢数も延べ百万本に達すると伝えられます。
 毎年正月(15日に近い日曜日・無料公開)には、
この古儀に因む弓道大会が行われ、全国から約2千人が参加し終日、賑わいをみます。
現在の「大的大会(おおまとたいかい)」と「大矢数」では矢を射る場所が反対になります。
 三十三間堂を舞台にした怪談にはこんな話があります。

諸国百物語 巻二の十三
   京五条の者、仏の箔をこそげて報いし事

 京、油小路(あぶらのこうじ)*五条あたりに、貧しき油屋ありけり。
 ある人、大仏の三十三間(げん)*の仏のうちに、金仏(こがねほとけ)ありと語りければ、
くだんの油屋、よき事を聞きたりと喜び、三十三間堂に行き、仏の手足をもぎとり、
灰に焼きければ、箔(はく)、かたまつて金になりければ、
是をあちこちと廻しけるほどに*、程なく金子(きんす)三十枚ほどになり、
それより家内富貴(かないふつき)になり、朝夕、栄耀(えよう)*暮しける。
 ある時、夫婦並らび寝たる所へ、何やらん、身にひやひやと触はるを不思議に思ひ、
火をとぼし見れば、小さき蛇(へび)二すぢあり。
夫婦おどろき、蛇を打ち殺しけれども、あとより幾つともなく蛇出でて、
夜昼となく、二すぢの蛇、実を離れず添ひゐたり。
さまざま祈り祈禱すれどもしるし*なし。
後には夫婦ともに、心悪しく*なりければ、博士(はかせ)*に占なはせみれば、
博士、占文(せんもん)*を考がへて云ひけるは、
「その方は、仏にかかりて*金銀をまうけたる事はなきか」と問ふ。
 夫婦のもの、「さればさやうの事候ひて金銀をまうけ候ふ」と、
一々残さず懺悔(さんげ)しければ、博士聞きて、
「しからば、その金(かね)にて仏を造り、かの寺へ寄進*し給はば、此の祟りは止むべし」と云ふ。
 さらばとて、儲けたる金(かね)、半分にて仏を作り寄進しければ、
かの蛇一すぢは離れ失(う)せけるが、今一すぢは身をまとひて離れず。
 夫婦の者、思ひけるは、とかく命のありてこその安楽*なれとて、
残る金にて、又、仏を作りて寄進しければ、今一すぢの蛇も離れうせて、
又、もとの貧しき油屋となりける也。

油小路 地名現存。
大仏の三十三間 現存する京都三十三間堂のこと。
  大仏は方広寺の俗称。
廻しけるほどに 売りまわって、金に換えたところ。
栄耀に 贅沢ざんまいに。
しるし 効験。
心悪しく 気持が悪く、病気がちに。
博士 陰陽(おんよう)の博士。陰陽(おんみょう)師の異称。
占文 占いの結果、現れた象形。
かかりて 関係したことで。
寄進 寄贈すること。
命ありてこそ… 「命あっての物種、命あっての安楽」(ことわざ)。
(『江戸怪談集(下)』 高田衛編・校注、岩波文庫 1989年 )
養源院(ようげんいん)
 豊臣秀吉の側室淀殿(よどどの)が父の浅井長政の追善のため、
文禄三年(1594)、政伯法印(せいはくほういん)(長政の従弟)を開山として建立した寺で、
長政の法号「養源院」を寺号とした。
 建立後、間もなく火災に遭ったため、
元和(げんな)七年(1621)に淀殿の妹で徳川秀忠夫人の崇源院(すうげんいん)
伏見城の遺構を移して本堂を再建し、
以来、徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。
 本堂の廊下の上の天井は、関ヶ原の合戦前、家康の命を受けて伏見城を死守した
鳥井元忠以下の武士が自刃(じじん)した時の廊下の板を天井に上げ、
その霊を弔ったもので、俗に、血天井として知られている。
 本堂の杉戸及び襖(ふすま)の絵(ともに重要文化財)は
俵屋宗達(たわらやそうたつ)の筆によるもので、
杉戸には唐獅子、白象、麒麟(きりん)等の珍しい行動が描かれており、
奇抜で新鮮味にあふれ、中学・高校の美術の教科書にも用いられている。
   京都市
ここで一番見たかったのは、俵屋宗達の「白象図」です(^-^)
ちなみに血天井の説明を聞いていると、人の形や指の跡まで見えてきました。
死後、2ヶ月ほど放置されていたとか(耳が悪いので聞き間違えかも…)。

法住寺(ほうじゅうじ)
 1621(元和7)年、妙法院(みょうほういん)が後白河天皇陵(りょう)を守護する目的で建立。
寺名は法住寺殿にちなんだもの。
明治になって、同陵が宮内省の管理下におかれ寺から分離されたことで、
寺名を大興徳院(だいこうとくいん)としたが、現在は旧名に戻っている。
「身代り不動」の異称をもつ本尊不動明王像は、方除(かたよ)け・厄除けにご利益があるといい、
大石良雄(よしたか)も主君の仇討成就を祈ったと伝えられる。
この縁で、本堂には赤穂浪士四十七士の像が安置されている。
摂取堂(せっしゅどう)には伝親鸞作という阿弥陀如来像および親鸞上人そば喰い像が奉安されている。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』京都史跡見学会編 山川出版社 2004年)
法住寺の脇の道を行くと

後白河天皇(ごしらかわてんのう) 1127~92年/在位1155~58年
 平安末期の天皇。鳥羽天皇の第4皇子。
母は待賢門院(たいけんもんいん)藤原璋子(しょうし)。名は雅仁(まさひと)
保元(ほうげん)の乱(1156年)で同母兄の崇徳(すとく)上皇を破り、直後に二条天皇に譲位。
補充寺殿(ほうじゅうじでん)を拠点に5代の天皇にわたり院政を行った(1158~79/81~92)。
平氏、ついで源氏など武士階級の台頭に直面し、1179(治承 じしょう 3)年、平清盛によって院政を停止され、
鳥羽殿に幽閉されるなど浮沈の多い生涯を送った。
清盛の死後、院政を再開。
諸国の源氏の挙兵をみて平氏打倒を企て、最初は源義仲(みなものとのよしなか)
ついで源頼朝に上洛を促している。
この間、不和となった義仲によって院御所(いんのごしょ)を攻められ敗北し、
監禁される事態もおこった(法住寺合戦)。
 平氏滅亡後も、源義経と頼朝の離間をはかったり、
あるいは頼朝が切望する征夷大将軍の任官を終生認めないなど、
権謀術数(けんぼうじゅつすう)を用いて武士に対抗し、皇権の維持につとめた。
政治家としては、側近の藤原道憲(みちのり)(信西 しんぜい)が「本朝・支那をついじて類(たぐい)まれな暗君」と評し、
頼朝には「日本第一の大天狗」と罵倒されるなど毀誉褒貶(きよほうへん)があるが、
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を撰するなど、その文化的業績は高く評価される。
(『京都洛東・洛南散歩24コース』)
南大門
博物館前からバスに乗ろうとしたら満員…
で、てくてく歩いて四条の南座までやってきました。
京都に来た一番の目的の店が…
閉まっていたのでビックリして掲示板を見ると「松葉北店」が営業しているヽ(^。^)丿
去年(11月19日)、鰊棒煮をお土産に買ってあげたら母が美味しいと喜んでくれた。
今年の年越しそばに鰊棒煮をいれて供えてあげたいとやって来たのです。
お土産を買ったので目の病気にご利益のある仲源寺をお参りしました。
昼間は、ガラスに光が反射してなかなかお姿を拝見できない地蔵さまの
お顔を拝むことができました(^_^)b
この後、しば漬けなどをお土産に買いました(2015年5月14日の記事
道を渡り、路地に入っていくと…
 昼のメニューはサービスランチだけです(^_-)
「トリからあげ・肉だんご・茶飯」これにスープがついていたらいいのだけどな…
美味しかったですよ(^_^)b
若い人には量がものたりないかな?でもσ(^^)には、ちょうどいい。
「おぶぅどうですか?」とお茶を勧められた時に、ほっこりしました(^。^)
病気をしなかったら夜に来たかったです…
電車に乗り、お昼を食べてから2時間ほどたち
小腹が空いたので力餅の中華そば(*´∀`*)
盛京亭のことは池波正太郎さんが書かれています。

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  祇園の北側、四条通りから路地を入った突き当たりの小さな店〔盛京亭〕へ、
今年になってから久しぶりで立ち寄ったら、せまい店内がきれいに改造されて、
相変らず活(い)きのよい中華料理を食べさせてくれた。
 この店は戦後に出来たのが、二十五、六年前に、はじめて、ぶらりと入ったとき、
祇園の芸妓(げいぎ)が〔おちょぼ〕を連れ、炒飯(チャーハン)を食べていた。
おちょぼは祇園花街の小女(こおんな)で、芸妓の世話から使い走りなど、一日をはたらきぬく。
これが成長して芸妓になったり、仲居になったりする。
 このような場所柄、盛京亭の中華料理は、いかにも日本人の舌に似合う味だ。
 八宝絲と称する冷前菜、春巻、酢豚、やきそば、炒飯など、何を食べても旨い。
 目の前の調理場で、手ぎわよくつくられる料理を、板前ですぐに食べる。
 むかしにくらべて、いまのほうが味もすぐれてきて、だれを連れて行っても旨いという。
(『むかしの味』池波正太郎 新潮文庫 1988年)