2017年11月3日金曜日

石清水八幡宮へお参り

今日は、父のお供で男山ケーブルに乗って

 巻第十七 889 よみ人知らず
今こそあれ我(われ)も昔は男山(をとこやま)さかゆく時もあり来(こ)しものを

今はこんな年寄りだが、私だって以前は男山の坂を登っていくように、
男盛りで栄えていく時もあったのだよ。
◎「男山」と「男」、「坂行く」と「栄行く」を掛ける。
(『古今和歌集』小町谷照彦 旺文社文庫 1982年)

こんな負け惜しみは言いませんが(^▽^)
 石清水八幡宮にお参りにきました。
七五三詣の子ども達が可愛かったですよ(o^^o)
父は長い時間、祈っていました。
《公開文化財》 御本社(国宝)
 現在の社殿は織田信長公による天正8年(1580)の修造及び豊臣秀頼公による慶長11年(1606)の造営を経て、
江戸時代の初めの寛永11年(1634)徳川三代将軍家光公の造営により完成したもので、国宝に指定されている。

 御本殿では織田信長公が修造の折りに寄進した「黄金の雨樋(あまどい)」や、
江戸時代の名工、左甚五郎
(ひだりじんごろう)作と伝えられる「目貫(めぬき)の猿」(彫刻)などの名物を見ることができる。
(『拝観の手引き』 京都古文化保存協会 平成29年)

本殿では神事が行われていたので「目貫の猿」は見ることができませんでしたが
(10時くらいになったら神事が終わり見ることができたのですが)
織田信長寄進の「黄金の雨樋」や橘の木に実がなっているのを見ることができました。
若宮社
仏教と関わる八幡(はちまん)信仰
宇佐(うさ)神宮(大分)は八幡神(はちまんしん)(*1)の総本社で、古来より朝廷からあつい信仰を受けた(*2)
また宇佐から勧請された京都の石清水八幡宮も皇室の祖先を祀る神社として尊崇を受けた。
石清水八幡宮は、皇族に出自をもつ源氏が守護神としたことで八幡神は武門(*3)の神にもなった。
八幡神は仏教との関わりが深い(*4)
生物を放つ「放生会(ほうじょうえ)」は仏教の殺生禁断にもとづく儀式であり、八幡神像(はちまんしんぞう)も僧形で表現される。
 なお各地の八幡(はちまん)神社は宇佐、石清水、鶴岡(鎌倉)の各社から勧請されたものが多い。
特に武士が所領に建てた神社では鶴岡が多数を占める。

(*1)第15代応神天皇と神功皇后、姫神、または仲哀天皇の3神を八幡神と呼ぶ。
(*2)もともと八幡神は九州の地方神であったとされ、大和朝廷が各地を平定した際、九州の隼人との戦いで八幡神の加護を求めた。
(*3)武家、すなわち武士の家系を意味する。
(*4)宇佐神宮の縁起書『八幡宇佐御託宣集』にも神仏の習合を記した箇所がある。
(『神社の解剖図鑑』米澤貴紀 エクスナレッジ 2016年)
日本には南蛮船に乗ってゾウは渡来していたようですからわりとリアルですね。
でも、足裏に肉球があるような…(*´∀`*)

1408年の今日(旧暦6月22日)、南蛮船が福井県小浜市に渡来し、将軍足利義持へアジアゾウを献上しました。これがゾウの日本初渡来です。当時は普賢菩薩の伝承から「ゾウは白い」と思われていたようで、普通のゾウは「黒象」と呼ばれました。……」(上野動物園[公式] 2017年7月15日
鹿のような竜のような…何かわかりますか(^_-)
似た絵が『鳥獣人物戯画 乙巻』にあります。
(「特別展覧会 国宝 鳥獣戯画と高山寺」 京都国立博物館だより 2014年

当時の人はサイの姿を見たことがなく、想像を巡らして描いたそうです。
(さい)」(雄峯閣 ―書と装飾彫刻のみかた―)が参考になると思います。
末社
 竈神殿
(そうじんでん)
 御祭神
迦具土神
(かぐつちのかみ) 奥津日子神(おきつひこのかみ)
彌都波能賣神(みづはのめのかみ) 奥津比賣神(おきつひめのかみ)
御神徳 台所守護
聴くことを多くし、語ることを少なくし、
  行うところに力を注ぐべし
       成瀬仁蔵

【意味】人の話を良く聴き、口を開くときは慎ましく、実行することに注力しなさい。
【出典】『日本女子大学修養会誓文』

成瀬仁蔵
 安政5年(1858)~大正8年(1919)
 明治から大正のキリスト教牧師。
 日本における女子高等教育の開拓者の一人であり、日本女子大学校(現日本女子大学)の創設者。
 第五代梅花女学校校長在任中に、日本で初めて日本式バスケットボールの原型である「球籠遊戯」をカリキュラムに採用したことから、遊戯式バスケットボール紹介者と言われる。

どこかの政治家に読んでほしいですね…
 書院石庭(重森三玲作)
 数多くの名庭を手がけた昭和を代表する作庭家・重森三玲により昭和27年(1952)に作られた石庭。
南北8m、東西約6mの方形のなかに白砂が敷き詰められており、
八幡大神様の「海神」としての神格に因んだ海洋を表している。
白砂の上にはもともと男山に散在していた石14個を大海原に浮かぶ島に見立てて配し、
石庭の東南の角には「永仁三(1295)年未乙三月」の刻銘が入った鎌倉期の石灯籠が配置されており、
当宮にある450基ほどの石灯籠のなかで唯一、国の重要文化財に指定されている。

(『拝観の手引き』 京都古文化保存協会 平成29年)
礎石かな?近くに「 西谷 大塔跡」の説明板があったのですが、
この石のことなのかな?自信がありません(^^ゞ

 西谷 大塔跡
 大塔(だいとう)は、天永2年(1111)に完成した巨大な仏塔です。
平安時代後期、初めて院政を開き権勢を振るった白河法皇(しらかわほうおう)の御願(ごがん)により建てられました。
 慶長10年(1605)には豊臣秀吉の子・秀頼(ひでより)が再建します。
その絵図面によると、現存する和歌山県岩出市 根来寺(ねごろじ)の大塔(国宝)とほぼ同規模の、日本最大級の真言形式の大塔でした。
側柱(がわばしら)一辺14.9m、高さ27.1mもありましたが、今から約150年前の明治の初め、神仏分離令のため取り除かれました。
 平成22年(2010)の発掘調査で、塔の周りの四角く巡らせた雨落(あまお)ち溝と、
柱を支えた礎石やその抜き取られた穴が確認されたことから、大塔の位置と大きさが正確にわかりました。

現在、生垣の通路に見えている丸い花崗岩(礎石①)は、落ち縁(えん)(廊下状の縁側)の礎石です。