2017年7月2日日曜日

大阪天満宮へ

地下鉄南森町駅から天神橋筋商店街を父さんと歩きました。
9時前なのでシャッターを下ろしている店が多いです。
父さんは、母さんのバックを肩に掛けて、母さんの杖をつきながら歩いています。
  菅原道真公御足跡
摂社 大将軍社
白雉3年 難波長柄豊碕宮(現、難波宮跡公園)に遷都されると、
その西北を護るための道饗祭が毎年6月・12月の晦日に斎行されることになった。
のち同地に大将軍社が創祀さると、道饗祭の故事にちなんで石畳は西北方向に並べられた。
昌泰4年(901)に菅原道真公が太宰府の途次に同社に参拝された由縁から、
天暦3年(949)ここに大阪天満宮が創建された。

(説明板などを転記していますが、漢数字などの表記を変えていますし、
転記間違いがあると思います)

これから仕事に行かれる方かな?
リュックを背負って掃除されていた。

この神社の周辺地域を南森町と称しているのは、古くは大将軍社の森とよばれ、
鬱蒼とした樹木に覆われていたことに由来する。

(『大阪府の歴史散歩 上 』大阪府の歴史散歩編集委員会編 山川出版 2007年)
母さんとは、姪の看護師国家試験の合格祈願にお参りにきたことがあります。
天神橋から一筋東に寄った道を南から北へ一直線に進むと、
天満宮の表門(大門)がみえる。
神社では正面に鳥居が建つことが多いが、
ここでは神門があり、両脇に随神が祀られている。
天神祭の際にこの門から神輿
しんよや地車が宮入りのため、
大変高いつくりになっている。
(『大阪名所図解』画・綱本武雄、解説・酒井一光 髙岡伸一 江 弘毅 140B 2014年)
境内には、談林俳諧の祖西山宗因にしやまそういんゆかりの向栄庵こうえんあん跡碑と
「浪華津に さく夜の雨や 花の春」の句碑、
御堂筋が終焉の地となる俳聖松尾芭蕉のく句碑「行年や 薬に見たき 梅の花」がある。

また、連歌師れんがし宗祇そうぎが千百発句ほっくを献じたこと、
豪商淀屋辰五郎
たつごろう)らによって連歌の会が盛大に催されたことも伝えられている。
(『大阪府の歴史散歩(上)

松尾芭蕉の句碑は2014年6月30日(月)の記事を参照してください。
 本社は、拝殿、幣殿へいでん、本殿の三つが一体になった複合社殿、
大塩平八郎の乱(大塩焼)の後、弘化二年(1845)に一旦竣工し、
最終的に明治四年(1901)に現在の形となった。
天保から弘化にかけては、飢餓や幕府の倹約令により華やかな造作が実現しづらかった。
明治に入り、徐々に透塀
すいべい欄間の繊細な装飾などを加え、今日の姿にいたった。
 ところで、複合社殿は一般に桃山・江戸時代から発達し、
なかでも入母屋造平入の拝殿と本殿を切妻造の幣殿で結び、
屋根を一体化しものを権現造
ごんげんづくりという。
ここでも基本形は権現造で、二つの入母屋造を一段低い切妻屋根が直行するように結ぶ。
しかし、拝殿両脇から楽所や詰所が一段低い入母屋屋根で張り出し、
拝殿の両脇には唐破風付の入口(登龍門)が付くなど、その形態は複雑を極めるものとなった。

結果、どの角度からみても変化に富んだ美しい屋根形となり、容姿に破綻がない。
(『大阪名所図解』)
井戸の神様を祭る「黒土祠(くろつちしゃ)
天満天神の水
 江戸時代の大坂町人は、生活用水を河川や井戸からとっていましたが、
その井戸水は決して良水とはいえないものでした。
しかし、当宮の井戸水は千日前の福井の水、道頓堀の秋田屋の水、
聚楽町の愛宕の水とともに、「大坂四カ所の清水」と賞され評判の美味でした。
 そのため、中之島の諸藩の蔵屋敷では、藩主の滞在中には、
わざわざ当宮から井戸水を運び込み、飲食用に供する習慣があったほどです。
 このたび、現代の飲料水の規格基準などを勘案したうえで、
再び天満天神の水を取水することにいたしました。
往事の美味をご賞味いただければ幸甚に存じます。
   平成26年7月25日
      大阪天満宮宮司 寺井種伯
登龍門
 当宮は天保8年(1837年)の大塩の乱で本殿及び多くの社殿が焼失し
その後弘化2年(1845年)に再建され現在に至っております
 その当時から東・西唐門両側に龍の図柄の金燈籠がありましたが
戦前の金属の供出でなくなり台座を残すのみとなっておりました
 この度菅原道真公千百年大祭記念として篤志の方の奉納により
昔ながらの図柄の燈籠が再現されることとなりました。
 屋根の部分は威勢よく跳ね上がる鯉
胴体には龍が巻き上がり逆巻く水面から天空をめざし舞い上がろうとしている雄姿は
一見奇異に見えますがこの唐門こそ登龍門そのものであります
というのも龍門は中国の黄河上流で鯉などがその下に集まり
多くは登り得ないが登れば龍となるという故事に基づいています
 それが転じてそこを通り抜ければ必ず出世するといわれる関門の意となります
 平成壬午歳 初春
   宮司 寺井種伯識
「鳳神輿」「玉神輿」について
 天神祭は、平安時代中期の天暦5年(951)に始まったと伝えられます。
10世紀末京都で御霊会が行われた際に神輿2基が出御した故事にならって、
天神祭にも鳳神輿と玉神輿の2基が登場するようになったようです。
 それまでの神輿は、天保8年(1837)2月の『大塩平八郎の乱』で灰塵に帰し、
今に伝わる神輿は天保11年に御旅所のある江ノ子島東町の天満屋清兵衛らの寄進によるものです。
 現在では、鳳神輿は菅南連合(菅南八町会)
玉神輿は、大阪市中央卸売市場本場の方々が講を結成し、

陸渡御・船渡御に参加奉仕を続けています。
『鳳神輿』には野見宿禰
のみのすくねの御霊
『玉神輿』には手力雄命
てじからおうのみことの御霊
がお乗りになっています。
 鯱しゃち
大棟の両端に取り付ける装飾のひとつ。
火伏
ひぶせの意味を兼ねる。
(『大阪名所図解』)
鬼瓦おにがわら
棟の端部に取り付ける瓦。
鬼面とは限らない。

(『大阪名所図解』)
本当の目的はこの店でしたが…
昨日、父さんが店に電話をしたときに午後から豆と味噌を買いに行くと言っていたのですが
午後からかなり気温が上がる予報だったので午前中に来ました。
商店街のHPを見ると10時開店になっていたのですが
10時25分まで待っていましたが、店の人が来る気配がしないので帰ることにしました。
(帰宅後、父さんが電話すると日曜日は10時30分からとのことでしたが本当かな…
宅配便で送ってもらうことにしました。)
待ち疲れたので帰り道、そば屋さんでカレーそばをいただきました。
父さんはカレーうどんです(o^^o)