2016年7月31日日曜日

八坂神社 疫神社夏越祭

こんな看板が立てられていました。

 お知らせ
 南座は,歌舞伎発祥に地にて元和以来の歴史と受け継ぐ劇場として,
平成の今日まで多彩な興行を続けて参りました。
これも偏に長年に亘りご贔屓,ご愛顧くださった皆々様のご恩情の賜物と,
心より厚く御礼申し上げます。

 さてこの度,昭和4年に建築された現在の建物の
安全性向上を図る工事を検討することになりましたため,
しばらくの間,休館させていただきます。

 今後の計画につきましたは,発表まで今しばらくお時間を頂戴いたしますので,
皆々様の温かいご理解を賜りますようお願い申し上げます。
     南座敬白

初めてお顔を拝見できたような…
先月も来たけど(*^▽^*)
普段は,たまにお参りする人を見かけるだけなのに
今朝は,8時半ごろにもう長蛇の列…
並ぶのを諦めて
神職さんや巫女さんが準備で忙しく働いていました。
神様への供え物を運んでおられる。
 忠盛燈籠(ただもりとうろう)

永久年間の頃(12世紀)白河法皇(しらかわほうおう)が
祇園女御(にょうご)の許(もと)に赴かれようとしてこのあたりを通られた時,
折しも五月雨(さみだれ)の降る夜で前方に鬼のようなものが見えた。
法皇は供(とも)の平忠盛(たいらのただもり)に討取(うちと)ることを命じられたが,
忠盛はその正体を見定めての上とこれを生捕(いけど)りにしたところ,
油壺(あぶらつぼ)と松明(たいまつ)とを持ち燈籠に
燈明(とうみょう)を献(たてまつ)ろうとしていた祇園の社僧であった。
雨を防ぐ為に被(かぶ)っていた蓑(みの)が
灯(ともしび)の光をうけて銀の針のように見えたのであった。
忠盛の思慮深さは人々の感嘆するところであったと云う。
この燈籠はその時のものといわれている。

悪王子社
 祭神 素戔嗚尊(すさのをのみこと)の荒魂(あらたま)
 
 悪王子の「悪」とは「強力」の意である,
荒魂は,現実に姿を顕わす,霊験あらたかな神の意であります。
諸願成就の御神徳で聞こえております。
元は東洞院四条下ル元悪王子町にありましたが,
天正年中(1573~92)烏丸通万寿寺下ル悪王子町に還り,
慶長元年(1596)四条京極に,さらに明治10年(1877)本社境内に移築したものです。


 美御前社(うつくしごぜんしゃ)
際神 市杵島比売(いちきしまひめ)神
多岐理毘売(たぎりびめ)神
多岐津比売(たぎつひめ)神 
美御前という名の通り,美を象徴する神として祭られています。
本社の際神,素戔嗚尊が天照大神と誓約(うけい)をされたとき,
素戔嗚尊のもっておられた十挙剣を振りすすいで生まれた三柱の女神で,
宗像三女神といい,清浄・潔白の証しとなった神々で,
俗に弁天さんといわれるのもこの市杵島姫の神です。
古くから祇園の芸妓さん舞妓さんをはじめ美しくなりたい願望の女性はもとより,
美容理容・化粧品業者の崇敬を集めています。
雲一つ無い青空です(^0^;)
 西行庵(さいぎょうあん)
 西行法師(1118~1190)は,平安時代末期の僧侶であり,
新古今和歌集の代表的歌人の一人である。
出家をする前の俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい,
もと鳥羽上皇の北面の武士であったが,
保延(ほうえん)6年(1140)に出家し諸国を行脚して
全国各地の風光明媚な自然を愛で和歌を詠んだ。
 この地は,西行が蔡華園院(さいかえんいん)を営み,
終焉の地であったところと伝えられている。
明治時代中頃には荒廃を極めていたが,
明治26年(1893)に,富岡鉄斎(とみおかてっさい)が
勧進文(寄付を呼びかける文)を書き,小文法師(こぶんほうし)が浄財を募り,
当時の京都市長内貴甚三郎(ないきじんざぶろう)らの尽力により再建されて現在に至る。
 当庵は,母屋「浄妙庵(じょうみょうあん)」,茶室「皆如庵(かいにょあん)」からなる。
茅葺(かやぶき)の母屋は大徳寺塔頭真珠庵の別院を移したものである。
皆如庵は北野の久我(くが)別邸より移された桃山時代の名席で,
円窓床(えんそうとこ)と道安囲(どうあんがこい)の点前座(てんまえざ)が有名である。
 毎年3月中旬には,皆如庵で西行忌(さいぎょうき)茶会が執り行われる。

  願わくは花の下にて春死なむ
       その如月(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃  西行(山家集)
         京都市

芭蕉堂(ばしょうどう)
 この堂は,江戸時代中期,俳聖松尾芭蕉をしのぶため,
芭蕉にゆかりの深いこの地に,
加賀の俳人・高桑闌更(たかくわらんこう)が営んだことに始まる。
 鎌倉時代の初め,諸国を旅して自然を友とした西行が,
この地に阿弥陀房を訪ね,

   柴の庵と聞くはくやしき名なれども
     よにこのもしき住居なりけり (山家集)

と詠んでいる。
芭蕉は,この西行を心の師とし,
西行を慕って旅の生涯を送ったが,この地で,先の西行の作歌を踏まえて,

  しばの戸の月やそのままあみだ坊 (小文庫)

の一句を詠んだ。
この句を生かして闌更が営んだのが,この芭蕉堂である。
 堂内には,蕉門十哲の一人,森川許六が刻んだ芭蕉の木像を安置する。
 毎年4月12日には花供養,11月13日には芭蕉忌が行われる。
 なお,東隣の西行庵庭内には,
各務支考(かがみしこう)が芭蕉十七回忌に建てた「かな書の碑」がある。
   京都市
 
初め芭蕉堂が分からなかった…
雙林寺(そうりんじ)
 金玉山と号する天台宗の寺である。
 延暦年間(782~805)に尾張連定鑑(おわりのむらじじょうがん)が
伝教大師(最澄)を開基に招して創建したのが当寺の起こりと伝えられる。
その後,鳥羽天皇の皇女入寺などもあって栄え,
広い境内と多くの塔頭子院(たっちゅうしいん)を有したが,
中世になって衰微するに至った。
応永年間(1394~1427)に国阿上人(こくあしょうにん)が再興し,
時宗一派の本山となり,東山道場と称したが,応仁の乱後再び衰え,
明治維新のとき天台宗に改まった。
更に,明治の中頃,円山公園が設置された際に多くの寺地を失い,
現在は本堂の一宇にその名残をとどめるのみである。
 本堂に安置する木造薬師如来坐像(重要文化財)は
平安時代の翻波式衣文(えもん)がよく表現されている。
 この地には,かつて,西行,平康頼(たいらのやすより),頓阿(とんあ)などが
庵住したと伝えられ,本堂の南西飛地境内地には今も西行堂が建つ。
また,豊臣秀吉もここで花見の宴を催したといわれる。
   京都市

頓阿法師の文字だけが読みとれたのですが
隣が西行,そして平康頼(たいらのやすより)の供養塔のようです。
   御陵衛士屯所跡(ごりょうえじとんしょあと)
 ここ高台寺月真院(げつしんいん)は,慶応3年(1867)6月から11月にかけて,
熱烈な勤王主義者であり,孝明(こうめい)天皇の御陵衛士(天皇の墓の守護者)と称した
伊東甲子太郎(いとうかしたろう)ら15名が屯所とした寺院である。
彼らはこの寺院を本拠として活動していたため「高台寺党」とも呼ばれている。
 伊東は常陸(ひたち 茨城県)の出身で学問優秀,
剣は北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の名手であった。
元治(げんじ)元年(1864)江戸から京に移り,新撰組に入隊し参謀となったが,
やがて近藤勇(こうんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)らと意見を異にし,
遂に慶応3年3月,新撰組と袂(たもと)を分かち,
同志14名を連れて御陵衛士に任命され,ここを屯所とした。
この中には江戸の試衛館(しえいかん)時代からの隊士,
藤堂平助(とうどうへいすけ)の姿もあった。
それ以降,薩摩藩の援助をうけ,
雄藩(勢力の強い藩)をまわってさかんにに勤王を説いた。
 慶応3年11月18日,伊東は近藤勇から酒席の接待を受けた帰り,
油小路木津屋橋(あぶらのこうじきづやばし)で待ち伏せていた新撰組に謀殺され,
さらに伊東の遺体を引き取りに来た多くの同志も,新撰組隊士によって斬られ,
御陵衛士隊の活動は終止符を打った。
   京都市

 このお寺,鷲田清一さんの『京都の平熱』の中に登場するお寺だと思う。
(「高台寺塔頭―奇人たちの宿」P56~59)
見たかった場所があるけど分からなかった…
遊んでおられるのではないですよ(*^ー゜)
神職さんが通られるので通行を規制されていた。
それが解除されましたと合図されていました(^。^)
行事が始まるのは,10時からなので
この暑さで待つのは厳しいなと諦めて向かった先が…

先日の火事が気になっていました。
あまり類焼はなかったようです。
モーニングを食べました。
野菜ジュースを追加できる(o^^o)
 今もマッチが置いてある(タバコの苦手な人にはすすめないけど)
六曜社で一服して元気になったので
此付近 坂本竜馬妻 お龍 独身時代 寓居跡
此付近 京都府知事 中井弘 幕末期 寓居跡

(新しい石碑だな…?)
信号機を見てビックリ。
最近,ここを利用していないので気がつかなかったけど
青信号の残り時間を表示している
(赤信号の時は,赤色であとどれくらいで青になるか)。
疫神社に着くとスゴイ長蛇の列で諦めて
 店内にはジャズのBGMが流れていた♪
前から食べたかった「田楽豆腐
二軒茶屋です。
 曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺跡之塔
西行堂の背後に,曹洞宗道元の荼毘所跡があり,石塔がたつ。
1253(建長5)年,病気療養のため上洛した道元は,
薬石効なく同年8月54歳を一期に入寂(にゅじゃく)。
遺体はこの地で火葬に付された。

(『京都洛東・洛南散歩24コース』)

と,書かれていたので探したのですが,場所が分からなかったです。
最初,西行庵と雙林寺を訪ねて,坂を少し下り
高台寺の方に向かって歩いたけど???でした。
(おかげで月真院を発見(*^▽^*)…)
 もう一度,今度は西行庵から坂を登り,雙林寺に向かいました。
雙林寺(青印の方向)の反対側に道があったので
赤矢印の所に小さな公園?
何の案内もなくこんな道の先にあったのです…
道元の荼毘所跡なので案内の掲示があると思ったけどなかったと思う。
12時前に少し列が短くなったように思ったので並びました。
それでも1時間ほど待って
疫(えき)神社の茅の輪をくぐることができましたp(^-^)q
 蘇民将来之子孫也
「 参拝者は、茅の輪をくぐったあと、
無病息災を願って茅(ちがや)を少し抜いて持ち帰ります。」
疫神社夏越祭」で祇園祭が終わります。
土井志ば漬本舗」で試食させてくださった。
漬物も美味しかったし,ご飯も美味しかった(^-^)
今日,疫神社で茅の輪くぐりをしたかった一番の理由は,
2011年7月31日に発病しました。その日も日曜日だった。
なんか無事こうして歩いているのが不思議なくらいです。

2016年7月30日土曜日

同じ仲間でも…

スズメの朝ご飯は,ハラビロカマキリではなく
カメムシ仲間のようでした(^。^)
今日は「土用の丑の日」
これはヒメガマだと思いますが,ガマは「蒲」焼きの語源になったという説があります。
今の鰻の蒲焼きのイメージではありませんが,
ウナギを開いて料理する前は,ぶつ切りだったそうです。
もう一つのブログで紹介したいと思います。
池に着いた時は草むらの中にカルガモの母鳥の頭だけが見えました。
時おり,子ガモが動く姿が見られたのですが,なかなか出てこなかった。
寝坊をしたのかな(*^▽^*)
しばらく歩いて戻ってくると

5羽とも元気に泳いでいました(^_^)v

母ガモの姿は凛凛しいですねp(^-^)q


泥の中にスポッとはまり込んだりしながら
朝ご飯を探していました(*^▽^*)


お尻振り振り歩く姿も可愛かったです(^-^)
一歩遅くて,メジロが水浴びをした後
羽づくろいをしているところでした…

今日は,土曜日なので
お父さんとお母さんに連れられて
幼い兄妹がセミ取りをしていました(o^^o)
 キカラスウリ(ウリ科)
陽ざしを浴びて輝いています☆
 山家集 中 雑 1027
うつり行く 色をば知らず 言(こと)の葉の 名さへあだなる 露草の花

うつろいやすいその色のことはともかくとして,
言葉の上でさえ露というはかない名を持つ露草の花であるよ。
◇露草 月草ともいわれ,花摺り衣に使われるが,
色が褪せやすく,変りやすい喩えにも用いられる。
(『山家集』)
池に戻ってくると母鳥が両羽を広げて威嚇していました。
他のカルガモが子どもたちに近づこうとしていたのです。
母鳥が追い払っていました。
    雑 草

どうぞ庭の草はそのままおいてやって下さい
どんな草でもきれいな花が咲きます
そう言って雑草をひかせなかった母
小さい孫たちにもたのんでいた母
雑草だけで充分たのしかった母
草花のように素朴な母でした

(『母 河野進詩集』聖恵授産所 1975年)

とかげのくらし」小学校6年生の男の子の研究です。
ニホンカナヘビと目が合いました(*゜∀゜*)
向日葵や日ざかりの機械休ませてある
(『山頭火句集』)
蟬させば竿(さお)にもつるゝ柳哉
(『子規句集』)
ペアルック(同色型)のアオモンイトトンボ

愛染明王を連想する(*^▽^*)
文殊は獅子に乗り
普賢は象王に跨る
妙音は蓮台を化
(け)
維摩は一床に臥す



文殊は獅子に乗り
普賢は象王に跨る
妙音は蓮の台(うてな)を幻出し
維摩は寝台に病臥する
(『日本の禅語録 第二十巻 良寛』入矢義高/講談社 昭和53年)
※漢詩は略して読み下し文と現代語訳を転記しています。
(「妙法蓮華経妙音菩薩品第二十四」)

妙音菩薩は座を起(た)たず,身は動揺せずして,三昧に入り,
三昧の力をもって耆闍崛山
(ぎしゃくつせん)において,
法座を去ること遠からずして八万四千の衆宝の蓮華を化作せり。
閻浮提金
(えんぶだいごん)を茎となし,白銀(びゃくごん)を葉となし,
金剛を鬚
(しべ)となし,甄叔迦宝(けんしゅくかほう)を以てその台(うてな)となせり。

     ○

(「二三 ガドガダ=スヴァラ」)

偉大な志を持つ求法者ガドガダ=スヴァラは,その仏国土から出発することなく,
またその座席から立ち上がることなく,そのような三昧に入った。
求法者ガドガダ=スヴァラがその三昧に入るやいなや,このサハー世界において,
グリドゥラ=クータ
(霊鷲山(りょうじゅせん))における如来の教えの座の前に,
八万四千本の蓮華が現われた。
それらの蓮華は黄金の茎と銀の葉をもち,花はキンシュカの色をしていた。

(P218~219)
(『法華経(下)』)
蟬鳴(せみなく)や行者(ぎやうじや)の過(すぐ)る午(うま)の刻(こく)

油照りの暑熱をかきたてるように蟬が鳴きしきる。
人気(ひとけ)のない道を、スタスタと修行者が通りすぎてゆく。
日は頭上にあって、まさに午の刻だ。
◇行者 仏法の修行者や修験道の山伏をいう。
当時の京都では山伏を見かけない。
(『與謝蕪村集』)
アオスジアゲハ(アゲハチョウ科)