2016年5月9日月曜日

京都(金福寺~詩仙堂~圓光寺)

久しぶりの京都です♪
出町柳駅から…
一乗寺駅で下車
鴨さんのブログ「詩仙堂 静寂の季節に」をみて訪ねました(*^-^*)
鴨さんは
和菓子の名店ですがお店では和菓子と洋菓子と両方あります。
さてどちらにするか、真剣に迷うのはまだまだ修行が足りないせい?
と悩んでおられましたが,Kazeは迷いませんでした(*^▽^*)
というのもブラタモリで店は違いますが
豊臣秀吉が絶賛した羊羹「蒸し羊羹」を食べていました。
「一乗寺中谷」では,蒸し羊羹ではなく
でっち羊かん+お抹茶」をいただきました(^_^)v
ホッと一息ついてお寺巡りですp(^-^)q
発病するふた月ほど前に訪ねたお寺です。
「佛日山金福(ぶつにちさん こんぷく)寺」


 金福寺の由来
佛日山金福寺は,清和天皇の貞観六年,慈覚大師が自作の聖観音菩薩の像を祀り,
国家安泰,衆生救済を念じて創建された。
その後,一時荒廃したが,元禄の頃,鉄舟和尚が,復興して臨済宗とした。
その後,松尾芭蕉は時々,鉄舟和尚を訪ねて親交を深めて居たので人々が,
後丘の庵を芭蕉庵と云う様になった。
降って安永の頃,与謝蕪村の一門が庵の退廃を慨いて,再興したのが,
今日の庵室で,彼等はしばしば当寺を訪れ,句会を開いて居た。
この寺は,観音の霊場で,また,俳諧の聖地とされ
蕪村,呉春,景文,中川四明,青木月斗,穎原退蔵とのゆかりも深い。

 うき我をさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉

 村山たか女が創建した「弁天堂」
文久二年尼僧となって金福寺に入り,
名を「妙寿(みょうじゅ)」と改め,十四年間の余生を送りました。
NHKの第一回大河ドラマは「花の生涯」でしたが,
テーマ曲を作曲された冨田勲さんが亡くなりましたね…
身がわり地蔵
連休明けの雨と言うこともあってか
拝観者はKazeだけで静かなお参りができました(*^-^*)
 蕪村筆 芭蕉翁像
蕪村が64才安永8年特に当寺の為に描いたもの。
彼は芭蕉を俳諧の先師として最も尊敬していた。
芭蕉の肖像画として最も勝れたものとの定評がある。
上部には芭蕉を賞賛した清田?叟(せいたたんそう)の撰文、
及び芭蕉の俳句を彼自身が書いてこの画像の賛としている。
村山たか女 お位牌
たか女の筆跡類
たか女59才のとき牡丹の刺繍をした壇引。
彼女は,若い頃京都で芸妓になって居たので,諸々の芸事を心得ていた。
 壇引=仏壇の前に垂らすもの。
井伊直弼筆和歌

   無根見(花押)
旦緩々(しばらくかんかん) 柴の戸のしばしと云ひ
  てもろともにいざ語らはん
            埋火のもと

たか女34才の頃,この一筆を頂き生涯の記念として大切にしていたものと思われる。
 たか女晒(さら)し者の図
  「文久秘録」より
幕府の隠密として暗躍した彼女は大老暗殺後,文久2年長州や土佐藩士によって,
京都三条鴨川の河原で3日間生晒しにされたあと助けられ,
当寺に入り名を妙寿と改め,14年間の余生を送り,明治9年67才の生涯を閉じた。
墓は圓光寺に,参り墓は当寺にある。
 村山たか密書 長野主膳宛
 長野主膳像
直弼の「埋木の舎」時代,和歌や国学の師であった。
直弼が出府し大老となると懐刀として
安政の大獄の采配をふるい「京都大老」と云われ恐れられた。
大老暗殺後,彦根藩内勤王派により首を刎(は)ねられた。

たか女が祀った「福巳塔」
たか女は巳年生まれであった。
慶応3年当寺で還暦を迎えたが,九死に一生を得て生き永えたのは,
巳をお使いとする弁財天のご加護と信じ,堂を建て弁財天と巳を祀った。

奥に見えるのが芭蕉庵
芭蕉の碑
蕪村や道立(どうりゅう)が建てたもので芭蕉の生涯を称えた文が刻してある。
蕪村は碑の建立時に

 我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花

とよみ残していたので望みどおり後丘の墓に納骨された。

翁(おきな)の水
鉄舟和尚が芭蕉をもてなした時に使ったと伝えられる井戸

「村山たか女」の参り墓
たか女は,明治九年金福寺で十四年間隠棲し六十七才の生涯を閉じた。
当寺この寺は圓光寺の末寺であったので本墓は圓光寺に建てられた。
金福寺でも彼女の菩提を弔うため本墓の土を埋め,彼女の筆跡を刻み参り墓とした。




本願寺北山別院
 御聖水
この湧出する水を「ご聖水」と名づけています。
その由来は,浄土真宗の御開山 親鸞聖人が比叡の山より,
六角堂の救世観音に百日間の参籠をされた際この地に杖をとめられて
,往きにはこの水で心身を清められ,
帰りにはしばしばご休息の後草鞋の紐を締めなおされて
雲母坂の険路に向かわれたという深いご因縁のある井水であります。
隣接する影向石と共に聖人の求道時代の消息を伝え,
若き日の聖人を偲ばせて戴けます。
当寺山号聖水山も右に由来するものです。
   本願寺北山別院

 詩仙堂丈山寺
 詩仙堂(しせんどう)
 正式には六六山(ろくろくさん)詩仙堂丈山寺(じょうざんじ)と号す曹洞宗の寺院。
1636(寛永(かんえい)13)年,石川丈山が隠栖(いんせい)のために構えた山荘を,
彼の没後に寺としたもの。
詩仙堂の号は中国漢・晋(しん)・唐・宋の詩人36人の肖像を,
狩野探幽(かのうたんゆう)・尚信(なおのぶ)に描かせて一室に掲げたことによる。
 正確には山荘は凹凸窩(おうとつか)といい,詩仙堂はその1室(詩仙ノ間)。
詩仙ノ間以外に至楽巣(しらくそう(猟芸巣(りょうげいぞう))・躍淵軒(やくえんけん)の3室
および2階に嘯月楼(しょうげつろう)がある。
入口の表門には「小有洞(しょうゆうどう)」の額を掲げ,
境内一円は国の史跡に指定されている。
庭園は東南に滝(洗蒙瀑(せんもうばく))を築き,
その落水の流れに沿ってツツジやサツキの刈り込みがある。
周囲に白砂を一面にしきつめ,青山(せんざん)と海洋を表現する唐様(からよう)庭園である。
遣水(やりみず)は詩仙ノ間の南でまがり,庭の中央にでて紅葉谷(もみじだに)におとす。
その下かげに有名な添水(そうず)「山田僧都(そうず)」がある。
シカやイノシシを追うために丈山が考案したものという。
例年,丈山の命日にあたる5月23日に丈山忌が行われる。

(『京都洛西・洛北散歩22コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年)

5月23日丈山忌には拝観できません!
この特徴的な形は織部好みの灯籠
前回来たときは気がつかなかったな…
前回来たときは6月12日でもまださつきが咲いていたのですが…
それでも観光客が少なくて静かな境内でした(*^-^*)
台所は撮影許可が出ました(^_^)v


今回も再会できました(^。^)
望遠レンズを持って来ていないので…

近くに宮本武蔵ゆかりの八大神社がありますが,
今回は割愛して…
  圓光寺由来
 瑞巌山(ずいがんざん) 圓光寺(えんこうじ)
  (臨済宗 南禅寺派)
開山 三要元佶(さんようげんきつ(閑室(かんしつ)))禅師
開基 徳川家康公
慶長6年(1601)徳川家康は,国内教学の発展を図るため,
下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き,
伏見に圓光寺を建立して学校とし,僧俗を問わず入学を許した。
また孔子家語(こうしけご)・貞観政要(じょうかんせいよう)など多くの書籍を刊行し,
伏見版または,圓光寺版と称された。
当寺には,出版に使用された木活字が現存しており,
我国出版文化史上特筆すべき寺院であるといえよう。
その後,圓光寺は相国寺山内に移り,
更に寛文7年(1677)現在の一乗寺小谷町に移転された。
堂内には,本尊千手観音像(伝運慶作)・
日本最古の木製活字5万4千個(重要文化財)・
竹林図屏風六曲(円山応挙作・重要文化財)などがある。

庭園は山門を上がると枯山水の奔龍庭が広がり,
さらに中門を抜けると苔と紅葉の美しい十牛之庭がある。
円山応挙の画いた竹林,水琴窟,栖龍池とともに洛北の静寂さを醸し出している。
また境内には徳川家康公の歯を埋葬した東照宮,
花の生涯のヒロイン村山たか女,南方特別留学生サイド・オマール氏の墓がある。
当山は明治以降,先年まで臨済宗南禅寺派の尼寺であり,
我国臨済宗唯一の尼僧修学道場あった。

見事な百日紅!
雨に濡れて,きっと猿も滑って登れないだろうな(*゜∀゜*)
水琴窟
前回は訪ねなかったのですが,
再訪したいなと思いました(^-^)
空を見あげているような…(*^-^*)
 小僧さんが修行に疲れたのかな…
ネズミがきても気がつかない(*^▽^*)


村山たか女の墓
 オマールの墓
大東亜戦争が酣(たけなわ)の,昭和18年6月,当時東条英機軍事内閣の要請で,
南方特別留学生の一人としてサイド・オマールは来日した。
彼は,大東亜共栄圏の同盟国であるマレーシア・ジョホール州の出身で,
祖父はジョホール州の首相をつとめ,その一族は政治,経済,教育の分野で名をなしていた。
恵まれた環境に生まれたオマール自身も,優れた資質を備え,人々の期待を担っていた。
オマールは広島大学在学中の8月6日,原子爆弾に被爆した。
彼自身も重傷だったのに大八車で広島市民の重い被爆者の救護にあたった。
米軍司令部の命により,オマールは京都まで来たが
症状が重く京大病院に運ばれたが,既に末期症状であった。
昭和20年9月3日,京都を終焉の地として,オマールは18歳の生涯を閉じた。
東条内閣に依り,来日した留学生は,
昭和18年に来日した一期生と昭和19年の二期生だけを南方特別留学生という。
     圓光寺


 墓地建立の経過
被爆後,東京に戻る途中京都で下車,
京大病院に入院するも手当ての甲斐なく一週間後に死亡,
当時の市営墓地であった南禅寺,大日山に埋葬された。
昭和35年この事が週刊誌に掲載され,
事情を知った八瀬平八茶屋の主人が弟の故園部健吉に墓の建立を依頼,
遺族の許可を得て昭和36年の彼の命日の9月3日にイスラム教式の墓碑を
善意ある市民の協力のもとで建立された。
  故 園部健吉
村山たかの墓が見える
初め徳川家康の墓と聞いて(・・?と思ったけど
徳川家康の歯が埋葬されているんだ!
儒者中村愓斎(てきさい)の墓

追記)
中村愓斎(なかむら・てきさい)
寛永6.2.9(1629.3.3)~元禄15.7.26(1702.8.19)
江戸前期の朱子学者。
名は之欽(しきん),字は敬甫,愓斎は号。
京都の商家に生まれ,生涯を朱子学の考究と門人教育に捧げた。
特定の師を持たず,米川操軒,藤井懶斎(らんさい),川井東村ら,京都在住の儒者と交流切磋する中で,学問を研く。
若いときに著した絵入百科事典『訓蒙図彙(きんもうずい)』にみられるように,博識を以て知られ,著述も礼制・天文・音韻・度量衡と幅広い。
儒学に関しては朱子学一尊で,経書や宋儒の著書に関する注釈書が多い。
ことに和文による『小学示蒙(しもう)句解』(1690),『四書示蒙句解』(1701),『近思録示蒙句解』(1701)は,朱子学入門書として,一般の日本人に分かりやすい形で著された注釈書である。
四書五経の訓点「愓斎点」が世に行われたほか,漢文の著書としては,『五経筆記』『入学紀綱』(1688),『講学筆記』等がある。
礼楽制度に詳しく,佐賀県多久(たく)の聖廟や岡山県の閑谷(しずたに)学校聖堂に安置されている孔子像は,いずれも愓斎の設計による。
京都において私塾を開き,弟子の教育に当たったが,彼の死後,塾の継承は絶える。
何人かの大名から招かれるが,終生仕えなかった。
のちに楠本碩水(せきすい)は,そのことを指して,「その識,高し」と称している(『碩水先生遺書』8巻)。
「篤実の純儒」というのが,同時代と後世に共通する彼に対する評価である。
(参)柴田篤『中村愓斎』(叢書・日本の思想家11巻) (柴田篤)
(『朝日日本歴史人物事典』)
なんか雨の中を歩いているとブラタモリみたい(*^▽^*)


50mmレンズなので近づけなかったけど…
京漬物 児島」でお土産を買うことにしました(*^-^*)
再び,「一乗寺中谷」を訪ねて,今度はランチをいただきました(^_^)v
「京雑煮のいろどりごはん」
お土産に「でっち羊かん
鴨さんが「青空に白藤 詩仙堂」の記事の中で
「絹ごし緑茶ティラミス」をお勧めしていましたが
店内の女性のみさんは,洋菓子を召し上がっていました。
(ちなみに,おっちゃんはσ(^_^;一人だった…)
線路を渡れば「一乗寺ラーメン街道」があるようですが,
病後,カロリー&塩分制限があるので諦めました…
一日雨の京都でしたが,おかげで静かな京都街歩きができましたp(^-^)q

いろいろと転記していますが,間違いがあると思いますので
ぜひ,訪ねて確かめてください(*^O^*)/