2016年5月16日月曜日

実相院~岩倉具視幽棲旧宅など

 発病前は,ここで山歩きの行動食を求めていました(*^▽^*)
海外からの観光客が大勢(^-^)
よくアジアからの団体観光客が揶揄されますが
数十年前に日本で海外旅行ブームが始まった時に
欧米で日本人の団体旅行客がどれだけ顰蹙をかっていたことか…
アジアからの観光客もあと,数年すれば
団体旅行よりも個人パック旅行を楽しむようになると思いますね!
岩倉駅で下車
田植えが終わっていました。
途中で道を尋ねた時に親切に教えていただき
「お気をつけて」と声をかけていただきました(*^-^*)
一見,民家のような外観の心光院(しんこういん)がある。
庭の手入れがいきとどき,四季をつうじて花のたえまがない。
本尊阿弥陀三尊像(国重文)は,平安末期の優品である。
非公開の尼寺のため,事前の連絡が必要。

(『京都洛西・洛北散歩22コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年) 
いつも思うのですが,バスの運転手さんってスゴイデスヨネ!
ここは一方通行ではない!
朱塗りの「目無(めなし)橋」
左に曲がれば「岩倉具視幽棲(ともみゆうせい)旧宅」ですが
後で訪ねることにします(*^ー゜)

 実相院(じっそういん)
もと天台宗寺門派の門跡寺院。
寛喜元年(1229),静基(じょうき)僧正の開基。
寛永年間,足利義昭の孫に当たる義尊が入寺。
その後,後西天皇の皇子義延親王が入寺。
以来,宮門跡が続いた。
 宮殿・御車寄など,東山天皇の后,承秋門院の薨去(こうきょ)に際し,
大宮御所の建物を賜ったもので,現存する数少ない女院御所といわれている。
寺宝には,後陽成天皇宸翰(しんかん)「仮名文字遣」(重要文化財),
後水尾天皇宸翰「忍」他,狩野永敬をはじめとする狩野派による襖絵を多数蔵する。
   京都市

鴨さんのblog記事「静けさと涼しさと 洛北の名刹 実相院」 
モリアオガエルの卵が見られると
カイさんからの情報を得ていたので見たかったです(^。^)
 手水の中でオタマジャクシが元気に泳いでいましたp(^-^)q
 室内は撮影禁止です。
縁側に出ると撮せます(^_^)v


のんびりと庭を眺めていると心が安らぎます(o^^o)
鴨さんのblog記事 「静かな名刹 岩倉実相院」
実は,岩倉の地は前から訪ねてみたかったのです。
そのことについて詳しくは,別の機会に紹介したいと思います。
そのゆかりの地に向かいます。
 石座神社(いわくらじんじゃ)
971(天禄2)年,日野(藤原)文範(ふみのり)が勅願によって大雲寺を創建した際,
山住大神(やまずみのおおかみ)を社名とともに,
旧石座神社(現,山住神社)から遷座し,同寺の鎮守社とした。
それ以前の由来は不詳。

口碑(こうひ)のよれば,平安遷都の折,
桓武天皇が王城鎮護のために大乗経を埋めた岩倉の1つという。
おそらく巨石や巨木に神が降臨するという,
古代からの磐座(いわくら)信仰の名残りであろう。
中世の兵乱で社殿や什宝(じゅうほう)・古文書類はことごとく焼失し,
現在の本殿は1766(明和3)年の再建。

(『京都洛西・洛北散歩22コース』)


 一言神社
 『岩倉村誌』(1925年)によると,祭神は一言主[ひとことぬし]大神です。
「由緒勧請創立年月不詳」ですが,
一言主神社の総本社(奈良県御所市)が賀茂氏本拠地の高鴨神社近くにあるので,
賀茂氏の移動に伴い,一言主神をまつる人たちが

やってきてまつるようになった可能性が高いと思われます。
地元では願いを一言だけきいてくれる神として親しまれています。
 元の一言神社は当地から北北東へ約1km離れた村松にありました。
元の社殿は後水尾天皇の娘で岩倉の万年岡茶屋に
住んでいた女三宮が寛文八年(1668)に再営したものです(『山城名跡巡行志』『岩倉村誌』)。
明治11年(1878)に現在地へ遷座。
石座神社敷地内に鳥居を持つ別の神社があるのはそのためです。
10月23日に近い土曜日に行われる祭の時,

一言主神をのせた子ども神輿が朝五時にここを発って村松へ向かうのもそのためです。
文久二年(1862)~慶応三年(1867)に出仕を禁じられて岩倉上蔵に住んでいた

岩倉具視がしばしば参拝したのは,村松にあった頃の一言神社です。
岩倉具視は一言神社のために二反(六百坪)弱の田を購入し,

収穫米のうち二石(300kg)を一言神社の維持にあてるようにしました(『岩倉公旧蹟要誌』)。
また現社殿の前には岩倉家から奉納された燈籠がたてられています。
  (文責・石座神社奉賛会)

可愛い狛犬に笑ってしまいました。
こんな狛犬は初めて出会ったな…(*^▽^*)
葛城の道にある一言主神社を訪ねたことがあります。
 2棟に分かれた本殿のうち,
東社(八所明神(はっしょみょうじん)本殿)は天照大神など八大神を,
西社(十二所(じゅうにしょ)明神本殿)は

天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)など十二大神をまつる。
装飾をおさえた,一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の

古式をとどめた宮座の建物である。
「天正二十(1592)年」銘の擬宝珠(ぎぼし)や

「慶長十九(1614)年」銘の石灯籠がある。
摂社として一言(ひとこと)社や猿田彦(さるたひこ)社・愛宕(あたご)社がある。
例祭が10月23日。
その前夜に松明の神事(火祭り)が行われる。

(『京都洛西・洛北散歩22コース』)
前から訪ねたかった「不動の滝」
    源氏物語ゆかりの地
大雲寺(だいうんじ)旧境内
 北山の「なにがし寺」候補地

 当辺は『源氏物語』「若紫」に登場する北山の「なにがし寺」の候補地の一つとされ,
元は大雲寺の境内地(寺は1985年に石座神社東に移転)で,北山病院の敷地となっている。
 寺は紫式部の母方の曾祖父藤原文範(ふみのり)が,
出家した娘婿の真覚(しんかく)上人のために建立,円融天皇の御願寺となり,
49院の僧院からなる叡山西麓最大の天台寺院で,
真覚の師が三井寺(園城寺)の僧であったことから寺門派の一大拠点ともなった。
 その後,冷泉(れいぜい)天皇皇后昌子内親王による堂舎の建立で寺は拡大,
岩倉観音院とも称し,この時の法要は盛大で,
紫式部の父の藤原為時(ふじわらためとき)は何度も話題にしており,
紫式部も訪れた可能性がある。
 ここが「なにがし寺」候補地とされる理由は,
都から比較的近い距離にあって高僧が住み,かつて庭に遣水(やりみず)のほか,
趣きのある滝があって,光源氏が瘧病(わらわやみ)の祈祷を受けた
老僧の巌窟(がんくつ)を想起させる雰囲気があることによる。
旧境内には冷泉天皇皇后昌子内親王岩倉陵がある。
なお「なにがし寺」の候補地としては早くから鞍馬寺が挙げられる。
  平成20年3月 京都市
別名「智弁水(ちべんすい)」と云い,智弁僧正(918~991)が
霊水を求めて密教の秘法を修められたとされる伝説と,
大雲寺文慶上人(もんけいしょうにん)(965~1046)の夢に
跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)が現れて「此の地に名水有り,
汝に与うべし」とお告げがあり,早速,左の袂(たもと)をもって大地を撫(さ)すると
たちまち霊水が湧出したという故事が残っている。
 干ばつにも降雨にも増減しない「不増不減(ふぞうふげん)の水」と称され
古来より霊水として崇(あが)められ,心の病・眼の病に
ことのほか霊験があると平安時代から今日までかわらぬ信仰をあつめている。
  平成17年11月 大雲寺住職 酒井敬淳 記

この岩倉の地は昔から心の病の人たちが参詣に訪れた場所です。
精神医療発祥の地とも言える場所なのです。
そのことについては,後日,別の本で紹介したいと思います。

石仏(鎌倉時代作)


 (石座神社の)大鳥居の前をとおって東に向かうと,
「万里小路藤房(までのこうじふじふさ)遺髪塔」と

きざまれた自然石が道の北側にたっている。
後醍醐天皇の寵臣(ちょうしん)であった藤房は,
建武新政権の腐敗に再三直言を呈したが聞きいられず,
1334(建武元)年,ついに官位をすてて
岩倉の不二坊(ふじぼう(現存せず,遺髪塔の付近にあった))にはいって剃髪。
驚愕した天皇は,父宣房(のぶふさ)をつかわして翻意を促そうとしたが,
すでに藤房は諸国修行の旅にでたあとであった。
庵の障子には「住捨つる山を浮世の人問はばあらしや庭の松に答えん」の
歌1首が記されているだけであったという。

 (『京都洛西・洛北散歩22コース』) 
出町柳のパン屋さんで買った行動食(^_-)
中身はスイートポテトあん+丹波大納言小豆
甘さがちょうど良かったです(^_^)v
 初め門が閉まっていたので月曜日だから休館かとビックリ…(^^ゞ

 岩倉具視幽棲旧宅(いわくらともみゆうせいきゅうたく)
 ここは,文久二年(1862)九月から慶応三年(1867)までの五年間,
明治維新に功績のあった岩倉具視が幽棲したところである。
昭和7年3月,「史跡」に指定された。」
 具視は,幕末の騒乱に際して公武合体を進め,
皇女和宮の将軍家降嫁に尽力したが,倒幕急進派の弾劾を受け,
文久二年九月官職を辞し,西賀茂霊源寺で剃髪し,ここに蟄居した。
慶応三年には維新運動の中心となって活躍し,のち明治新政府の右大臣となった。
 現在,幽棲旧宅,文庫,管理人宅の三つの建物がある。
旧宅には西北にあって平屋建茅葺と瓦葺の二棟からなる。
茅葺は玄関座敷で約60平方メートル,瓦葺一棟は居間勝手等で約74平方メートル,
具視幽棲時の旧態をしのぶことができる。
 旧宅の東側にある文庫には具視関連の品々を陳列している。
 庭前には具視の遺髪塚とお手植の松がある。
    京都市

 対岳文庫(たいがくぶんこ)も閉まっているのかと
早合点して受付に戻りお聞きすると
猫が入るのでしめているそうです(*^▽^*)
文庫の史料は撮影禁止です。
 「国指定史跡岩倉具視幽棲旧宅」(京都市情報館)

岩倉具視の遺髪を収めた遺髪碑


ちなみに休館日は水曜です。


延命地蔵菩薩
はしのたもとの おじぞうさま
みちゆくひとを みまもりて
あやまちないよう おばんにん
みんなけがせず あそべます
りょうてをあわせて おがみましょう
  地蔵菩薩真言
手を合せ お唱へ しましょう(七返又二十一返)
オン カカカ ビサンマエイソワカ

 
 このあと「十福」が続きます(^-^)

さきほど訪ねた岩倉観音への石柱道標
岩倉川沿いに歩いていました。

もっと近づきたかったのですがロープ(1本)張られていたので
社務所?でヨガ?をされていたグループの方にお聞きすると
危ないそうで,立入禁止のようです。
 山住神社由緒(石座神社旧地)
山住神社には社殿がなく,そびえ立つ山を神南備山(かむなびさん)と仰ぐ巨石を,
神々の降臨する場「磐座(いわくら)」と崇めた古代信仰の遺跡である。
前方の木柵を囲らした,立石の後の高く廣い巨石が神々の座「磐座」である。
「三代実録」陽成天皇元慶四年(880年)の頃に(山城国正六位石座神社従五位下)と記され,
千有余年を経る古社である。
天禄弐年(971年)この地に鎮座して上蔵町(今の石座神社)に遷座以降この古社は,

山住の神と号し,石座神社の御旅所となる。
10月23日の石座神社例祭には,早朝神輿の渡御があり,祭典が行われる。
  石座神社奉賛会

お昼をどこで食べようかと迷っていると
鴨さんのブログで 「洋食も花街を支えて グリル富久屋さん」と
紹介されていたのを思い出して五条に向かいました(*^ー゜)
この前を通りながら定休日や開店前で入れなかったのですが…
ここの名物はフクヤライスのようですが,
昔ながらのオムライスを頼みました(*^▽^*)
店内にあった本

 グリル富久屋(ふくや)
創業は明治40年(1907年)。
佇まいは喫茶店のようだが,花街らしい,花うちわが飾られた店内で
エビフライ,カツカレー,洋食弁当などが愉しめる。
名物<フクヤライス>は,とろとろの卵の上にトマトやグリーンピースが載る,
お花畑のように華やかなオムライス。
中のチャップライスはシンプルでさわやかな味わい。
たまごサンドや,タルタルソースを使った海老サンドも美味しい。
運が良ければ舞妓さんにも会えるかも。
定休日木曜,第3水曜

(『京都のツボ 識れば愉しい都の素顔』柏井壽 集英社 2016年)