2016年4月16日土曜日

大阪城散策(*^-^*)

シャガが咲いていました(*^-^*)
ハクセキレイが眩しそうに空を見上げていた(^。^)
今朝は大阪城(大坂城)を訪ねました。
2014年4月8日の記事も読んでいただけたらありがたいです。


 歩兵工廠でつくられた水道管がいまも現役で使用されているのを見ることができます。
西の丸庭園の東側,本丸との間に空堀の上を太い鉄管が二本,
橋のようにわたっているのがそれです。
これは,大阪市水道局の水管橋で,天守閣の東側にある配水場から
一日二万トン弱の上水を上町台地の北部地域に給水するため,
1895年に大阪市が最初に上水道を引いたときから使われています。
鋳鉄の管で,太い方は内径が914ミリメートル,細い方は838ミリメートルあり,
100年以上経っているのに,水漏れもなく,修理した記録もまったくないそうです。
しかも,この水道管は,城の石垣に沿わせるように独特の曲がり角度をもたせてあり,
わざわざ専用の木型をつくって鋳造したのではないかといわれています。
大阪歩兵工廠が高度の技術を有していたことを示す製品といえるでしょう。

(『大阪戦争モノ語り』)
石山本願寺推定地
明応五年(1496)に,本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。
これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現れる初例である。
『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ,
当時は小堂であったと考えられる。
その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに,
天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで,
本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
石山本願寺周辺は,山科と同様に広大な寺内町が造営された。
この造営が現在の大阪の町並みの原形となったと考えられる。
その後十一世顕如の時代に,信長との石山合戦に敗れ,
石山本願寺を退去した本願寺教団は,鷺森,貝塚,天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
一方,石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大阪城が建設される。
この時に,大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。
さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して,
再び大規模な土木工事が行われた。
このような状況のため,石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡については
まだ確認されていないが,現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。
     大阪市教育委員会

今日は剣道の試合があるのかな(・・?
奥に控えているのは太閤さん(*^▽^*)
豊国神社(ほうこくじんじゃ)は大阪衛戍監獄の跡地に移転してきました。
神社の近くにあるのが

  鶴 彬(つるあきら)

  この地には,かつて大阪衛戍(えいじゅ)監獄があり,
1931年(昭和6年)治安維持法違反で22歳の川柳作家鶴彬が収監され,
1年8ヶ月の呻吟(しんぎん)の日々を送っていました。

  暁をいだいて闇にゐる蕾
 
 鶴彬は暁の日を見ることなく二九歳で獄死しました。
 私たちは戦争へと進む時代に抗し,
強靱な精神力で不屈の川柳を体現した鶴彬を偲び,
没後70年を機に鶴彬を顕彰し記念植樹を行なうものです。

  鶴彬没後七0年紀念
  寄贈 百日紅
        2008年9月14日  鶴彬顕彰実行委員会
 鶴彬については,別のブログで紹介します。
重要文化財 一番櫓(いちばんやぐら)
二の丸南側の石垣上には,2層2階でほぼ同規模の隅櫓【すみやぐら】が,
東から西へと一番から七番まで建っていた。
この櫓は最も東に位置することから「一番櫓」という。
外側にあたる東面と南面を中心に窓が16あるほか,
鉄砲や矢を放つための狭間【さま】も多数あけられ,
玉造口【たまつくりぐち】に攻め入る敵を
側面から一斉に迎撃することができた。
東面には石垣を登ろうとする敵を撃退する石落しも設けられている。
創建は徳川幕府による大坂城再築工事の
最終段階にあたる寛永5年(1628)と考えられ,
戦後の解体修理の際に発見された部材の墨書銘により,
創建後の主な修復は万治年間(1658~61)・寛文8年(1668)・
天保3年(1832)の3度だったと推定される。
中でも天保3年は解体をともなう大規模なもので,
建物下の栗石【ぐりいし】の間から当時のもとのみられる衣類が検出されている。
面積は1階が約167.98平方メートル,2階が約96.31平方メートル,
高さは約14.3メートルである。
なお,一番から七番までの櫓のうち,
現存するのはこの一番櫓と六番櫓のみである。

 「大阪城公園内に残る戦争の傷あと」
第四師団司令部庁舎 (歴史遺産として活用してほしいですね)
現在の天守閣は昭和6年(1931)に復興されました。
復興するときには,誰もが石垣や堀は太閤さんの城だと思っていましたから,
大坂夏の陣図屏風に描かれた豊臣時代の天守を復元したのです。
いまとなっては,徳川製の石垣の上に豊臣風の天守が載るという,
たいへん奇妙なことになってしまいました。

(『大阪城ふしぎ発見ウォーク(旧版)』)
歩兵工廠などの建物が,本当に見るも無残な状態となった中,
昭和6年(1931)に建てられた天守閣が無事に残ったのは,
まさに奇跡とといっていいかもしれません。
とはいうものの,全くの無傷であったわけではありません。
天守閣をめがけ,一トン爆弾が二つ落ちました。
しかし,天守閣の建物本体を避けるように落ちたため,
天守閣そのものは幸い残ったのです。
でも,天守台の石垣に当たり,東北隅の石垣が歪んでいるのがわかります。
ここに爆弾が落ち,歪んでしまったのです。

(『大阪城ふしぎ発見ウォーク(旧版)』)
  山里丸石垣(やまざとまるいしがき)の機銃掃射痕(きじゅうそうしゃこん)
石垣の表面に残る傷は,第二次世界大戦末期の空襲による被害の痕跡で,
機銃掃射によってついたものと推定される。
昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで,
大阪は8度におよぶ大空襲を受け,
陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった。
山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ,
北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが,現在はいずれも修復されている。

今までに何度も傍を通っているのに気がつかなかった…
女子防空通信手の碑
ここは,アジア・太平洋戦争の末期,翼隊と呼ばれた

女子防空通信隊の宿舎があったところです。
1943年,約10倍の競争率を突破して約200名の女子防空通信士が採用され,
1945年には,300名が3組編成で,本丸の南隅,現在の日本庭園の南側にあった
半地下式のトーチカ型庁舎で勤務しました。
静岡から広島までの各地の防空監視哨(しょう)から,
侵入する敵機種・機数・高度などの情報を電話で受け,
地下にある作戦室にその状況を伝えることが任務で,
それに基づいて参謀たちが空襲警報や警戒警報などを発令するのでした。
防空体制は重要な機密でしたが,軍の通信兵が次々と前線に転じたため,
その補充に彼女たちが採用されたのです。
突然飛び込んでくる情報を正確に記録し,表示することに集中して,
歩兵工廠が空襲され,大阪城が爆撃される間も

部署を離れることはありませんでした。
(『大阪戦争モノ語り』)
   秀頼(ひでより)・淀殿(よどどの)らの自刃(じじん)の地
慶長20年(=元和元年,1615)の大坂夏の陣では,旧暦の5月8日,
徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が,
山里丸にあった櫓にひそみ,自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997),
現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。


現在,大河ドラマの舞台になっているのに観光客は素通りです(*^ー゜)
ムクノキかな(・・?


   「ばけもの屋敷」跡
伏見櫓の内側一帯には,江戸時代のはじめ金奉行(きんぶぎょう)の

役宅が置かれていたが,やがて空き地となり,
いつしか「ばけもの屋敷」とよばれるようになった。
大坂城を管理する重職である京橋口定番(じょうばん)の

屋敷(公邸)はこの南側に隣接しており,
代々の定番にはここに住み着く妖怪がとりつくと恐れられたが,
享保年間(18世紀はじめ)に着任した

戸田大隅守(とだおおすみのかみ)という大名が退治したと伝える。
   京橋口定番屋敷跡(きょうばしぐち じょうばんやしきあと)
江戸時代,ここには幕府の要職である

大坂定番に就任した大名の屋敷(公邸)があった。
大坂定番は定員が2名で,

そのうち京橋口定番は京橋口の内側に屋敷をもち,
京橋口守衛のほか,玉造口定番とともに城に勤める下級役人を統率し,
大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して

西日本の支配にもたずさわった。
敷地内には公務を行う表御殿,家族が暮らす奥御殿が建ち,
家臣の詰める小屋などもあったが,

いずれも明治維新の大火によって焼失し,
跡地には軍により士官学校の施設がつくられた。

  こま犬
この一対の「こま犬」は中国・明【みん】の時代の文化遺産で,
それぞれ高さ約3メートル,重さ約2.9トンある。
日中戦争の最中に日本へ運ばれ,

当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。
戦後も長らく山里口出枡形【やまざとぐちでますがた】の東付近に置かれていたが,
昭和59年(1984),中国政府により改めて大阪市に寄贈されることとなり,

現在の場所に移された。
以来この「こま犬」は,両国人民の友好関係を促進し,

友誼を深める象徴となっている。
脇に建立された記念碑には,変わらぬ中日友好への願いをあらわした
「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており,
これは当時の宋之光中華人民共和国中日日本国特命全権大使の筆になる。


記念碑を見たかったけどこの「こま犬」の傍でカメラマンが大勢おられた
上にカメラを向けるのではなく下に向けておられたので…
   京橋口枡形(きょうばしぐちますがた)の巨石
京橋口枡形の内,京橋口を入って正面に見えるのが,
表面積が畳約33疊敷(54.17平方メートル)にもなる城内第2の巨石「肥後石」である。
築城の名手加藤肥後守清正(ひごのかみきよまさ)が運んできたと伝えられてきたが,
実際は徳川幕府による大坂城再築時に,
この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。
肥後石の左手が京橋口二番石で,
表面積が畳22畳敷(36.00平方メートル)の,城内第7位の巨石である。


今度の震災で熊本城にも大きな被害が出ていますね…
シロバナタンポポが咲いていました(*^-^*)
   京橋口(きょうばしぐち)
大阪城の西北の出入口。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから,
「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた。
戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り,
枡形(ますがた)には大手口と同様に多聞櫓(たもんやぐら)もあって,
大阪城の名所となっていたが,昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。

 筋鉄門跡(すじがねもんあと)
元和6年(1620)に開始された徳川幕府による大坂城再築工事では,
同年の第1期工事により二の丸の北外側に

北外曲輪(きたのそとくるわ(三の丸))が築かれた。
筋鉄門はその西の入口で,門扉は筋状の鉄板で補強されていた。
ここは鴫野(しぎの)方面への通路にあたることから一般の通行が許され,
特に鴫野の弁財天(べんざいてん)の縁日は多数の市民がここを通った。
門は明治維新後も残り,北外曲輪跡に設置された
軍事工場(大阪歩兵工廠)の正門とされたが,現在は左右の石組だけが残る。


守衛所などに使われた建物は崩壊寸前…
 化学分析場は,大正期に建てられたネオ・ルネッサンス様式の
二階建ての重厚な洋館で,建築家の置塩彰が設計しました。
延面積1887平方メートルです。
ここで新兵器の開発や研究,化学実験がおこなわれていました。
砲兵工廠では,毒ガス弾の筒をつくっていたことから,
毒ガスの開発にも関係があったのかもしれません。

(『大阪戦争モノ語り』)

広島の大久野島が毒ガス製造にかかわっていました。
化学分析場の建物を少し東へ行ったところの道沿いに,
奇妙な鉄の塊が置かれています。
長さ5メートル,幅2メートル,高さ50センチメートル程の

小舟のような形で,内側がくぼんでいます。
1941年の時点ですでに苔が生えていたといわれていますので,
置かれてからその時までに数年は経っていたようです。
鉄材製造所で,鉄を溶かしているところに

ひとりの工員がはまって亡くなったため,
材料に使わないで表門に近いこの場所に

置いたままにしているという話が伝えられています。
(『大阪戦争モノ語り』)
鉄の塊にトキワハゼが咲いていました。


 豊臣時代大坂城三の丸北端の石垣(移築復元)
この石垣は,大坂城三の丸の石垣の一部をここに移築し,
発見されたままの姿に復元したものです。
豊臣時代の大坂城三の丸は,豊臣秀吉の晩年にあたる慶長3年(1598)に
大坂城の防御強化のために造られました。
しかし,慶長19年(1614)に大坂冬の陣の講和条件として
徳川家康によって取り壊され,地中深く埋もれてしまいました。
平成元年(1989)の大阪府立女性総合センターの建設に伴う
発掘調査で,再び姿を現しました。
地表下約2mのところに東西21mにわたって発見されたこの石垣は,
上部は崩されていましたが,いままでみつかった
豊臣時代の石垣の中でもっとも残存状態のよいもので,
当時の大坂城の面影を今につたえています。
妹と妹の親友と待ち合わせて
天満橋駅上の「土山人」でランチをいただきました(*^-^*)
天麩羅を一つ食べてから撮し忘れていたことに気がついた(^^ゞ
ランチの後は,妹たちと別れて本屋さんで本探しをしてから帰宅しました(^。^)