2015年10月13日火曜日

講演会~片埜神社

枚方市駅に懐かしい菊人形
涙袖帖(るいしゆうちょう)
    楫取素彦(かとりもとひこ)~美和(みわ)へ
大河ドラマ『花燃ゆ』より!
美和は素彦(亡き姉・寿(ひさ)の夫と再婚したとき,亡き夫(久坂玄瑞(くさかげんず))から送られた二十一通の手紙を携えていた。
どれだけ月日が経っても,久坂を忘れられなかったのである。
素彦はそんな美和を温かく受け入れ,その手紙に装丁を施し涙袖帖と名づけ,美和に渡す。
※この作品は『ひらかた市民菊人形の会』が制作致しました。
市民参加で菊人形文化の継承を目指そう!
私達は平成18年から人形師指導のもと,人形制作の技を一から習得し本日10回目の展示をさせて頂きました。

十年の節目を迎え。『できればもう一度!』と菊人形の復活を願い日々技を磨き,これからも次世代への伝承に努める所存でございます。
10回目の展示と申しましても,まだまだ皆様のお眼鏡には叶いませんがこれからも末永くご声援を賜りますようお願い申し上げます。

 (連絡先:省略)ひらかた市民菊人形の会一同
目的地は「ラポールひらかた
前からお話を聞きたいと思っていた(*^_^*)

『みんなの学校って何?』
木村泰子先生講演会
~学校はみんなのもの大空小学校での取り組み~
主催 枚方自閉症児親の会

2年ほど前に見たドキュメントが強烈でした。
お話もテレビで拝見したのと同じ!パワフルで濃い内容でした。

公教育(パブリック)の「あたりまえ」は,障碍があろうと,虐待をされていようと,全然勉強がわからへん子であろうと,腹立ったらすぐ友だちを殴りに行く子であろうと,この子どもたちが学んで外へ出て生きて行くことができる子にすること。
困ったことが起きたときにみんなで考えるのが支援。
新設校としてスタートして9年間で不登校が0だった。
9年間教師も病気をしなかった。
今の大阪では,学校の取り組みが難しくなっています。
それは学校評価が大きいと思います。
困り感を抱えた子どもは学校にいづらくなっているのが
木村先生が勤務していた学校に転校する子どもが増えたことにも現れていると思います。
「大阪市立大空小学校 平成 27 年度 校長経営戦略予算配付申請書(総括)」


後日,見たかった映画『みんなの学校』の自主上映会があるので楽しみにしています(*^O^*)/
ランチは,道路を渡った所にあるお店に
「フリフリチキンプレート」
 「ハワイアンBBQ フリチキ 」
美味しくて感じのいいお店でした(*^。^*)
二駅電車に乗って「牧野駅」からすぐの
平成19年3月4日建立された

「伝 阿弖流為(あてるい) 母禮(もれ)之塚」
約1200年前,時の朝廷の国土統治にあたり,
東北地方には蝦夷(えみし)と呼ばれる人々がいてその支配を拒否していました。
このため朝廷は,彼らを辺境の人々として征討部隊を派遣しましたが,
人々はこれに対し,激しい抵抗を繰り返し容易には屈しませんでした。
延暦21年(802)4月,征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は
蝦夷の首長アテルイと副将モレが同族500余人を引き連れてようやく降伏したことを
朝廷に報告し,七月,二人を伴って帰京しました。
二人の処遇について田村麻呂は強く助命を嘆願しましたが,
8月,二人は河内国で処刑されました。
この地がアテルイとモレのゆかりの地がアテルイとモレのゆかりの地とされています。
なお,塚の裏面に説明があります。

阿弖流為と母禮が処刑された地は「河内国の杜山(もりやま)」、あるいは「植山(うえやま)」や「椙山(すぎやま)」とされているようですが,いまだ分かっていないようです。
アテルイを顕彰する会」「関西アテルイ・モレの会」の記事が参考になると思います。
こちらはかなり古い石塚なのですが説明板はありませんでした。
土塀が見られました。
鳥居を裏から見たので表に回ると(^_-)
片埜神社(かたのじんじゃ)
祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)・菅原道真ほか
かつては片野神社と称し,交野郡では久須々美(くすすみ)神社とともに『延喜式(えんぎしき)』式内社(しきないしゃ)であった。
豊臣秀吉は大坂城築城にあたり,鬼門(きもん)鎮護のために片埜神社の修復を命じている。
さらに1602(慶長(けいちょう)7)年,片桐且元(かつもと)を総奉行として社殿の再興を行った。
現在同社に残されている片桐且元在判の棟札は,このときのものである。
本殿(国重文)は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)・檜皮葺(ひわだぶ)きで,とくに蟇股(かえるまた)には竹に虎,花鳥など精緻な彫刻を施すなど,この時期の特徴をよく残している。
また,東門は本来棟門として使用されていたもので,室町時代の形式をよく残し,南門とともに府指定文化財となっている。
このほか,境内にある石造灯籠(府文化)は,一部が欠損してるものの鎌倉時代の作といわれる。
明治時代初期に坂村九頭神(さかむらくずがみ)にあった同じく式内社の久須々美神社を合祀し,のち「片埜神社」に統一されている。
(『大阪府の歴史散歩 下 』大阪府の歴史散歩編集委員会編 山川出版 2007年)
片埜神社東門(府指定文化財)
この門は棟門(むねもん)でした。
棟門は平安 鎌倉時代の寺院の総門(そうもん)や大邸宅の表門に用いられ,
「むなかど」とも呼ばれています。
左右に円柱を立て,その上に水平に冠木(かぶき)が通り,
梁(はり)の上にのせた蟇股(かえるまた)の中ほどまで円柱が延びています。
扉は桟唐戸(さんからと)を用います。
控柱(ひかえばしら)を用いず築地塀(ついじべい)に密着させて門柱をささえるので
,地震や台風などで倒れる危険があり現存するものは数少なくなっています。
のちに改められて小型の四脚門(しきゃくもん)となりましたが,
室町時代の様式を伝承しており,府内でもこの時代としては数少ない遺構(いこう)の一つです。
 2015年1月 枚方市教育委員会




  片埜神社本殿
社伝では,古くから旧交野郡の鎮守神として崇敬され,
延喜式に記載されている交野郡二座のうちの一座である。
天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂城築城に際して,
当社を鬼門鎮護の社として定めという。
現在の本殿は,残されている棟札によると,
慶長7年(1602)豊臣秀頼が片桐且元を総奉行に再建したものである。
三間社流造(ながれづくり),檜皮葺(ひわだぶき)で,
細部にいたるまで桃山時代の華麗な様式をよく示しており,重要文化財に指定されている。
特に四面を飾る蟇股(かえるまた)の彫刻に当時の特色を見ることができ,
向拝(こうはい)中央は竹に虎,右は芙蓉にせきれい,左は椿にひよどり,
本殿正面は中央・左右とも牡丹,背面は中央に椿,左にかきつばた,右に菊,
東妻は太閤桐,西妻は粟と,絵画的で精巧な彫刻がそろっていて見応えがある。
平成21年から,檜皮葺屋根の葺替,彩色の塗替が行われ,朱漆塗に極彩色の壮麗な社殿がよみがえった。
境内の南門は本殿再建後,引き続いて造営されたもので,大阪府の有形文化財に指定されている。
  平成23年9月 枚方市教育委員会

「河内一宮」と刻まれていました。

「皇大神宮遙拝所」

  依姫社
一,御際神
玉依姫
 神武天皇様の御母君・下賀茂神社の神様

大国主命
 大己貴命・出雲の大黒様・国土守護神

市寸嶋姫命
 安芸宮島の大神・弁天様・芸能上達の神様

一,明治初期,境内の玉依姫神社・大国主神社・市寸嶋姫神社 
それぞれのお社を依姫社に合祀申し上げて今日に至る。