2015年7月9日木曜日

建仁寺

国宝 風神雷神図(高精細複製)
金澤翔子さんの「風神雷神
建仁寺
大雄苑


双龍図 小泉淳作 筆
この天井画「双龍図」は平成14年(2002),建仁寺開創800年を記念して,
鎌倉在住の日本画家小泉淳作氏によって描かれたものである。
大きさは縦11.4m,横15.7m(畳108枚分)あり,麻紙(まし)とよばれる丈夫な和紙に,
中国明代で最上の墨房といわれる「程君房(ていくんぼう)」の墨を使用して描かれている。
製作は北海道河西(かさい)郡中札内村(なかさつないむら)の廃校になった小学校の体育館を使って行われ,
構想から約二年の歳月をかけて平成13年10月に完成。
翌年4月14日,建仁寺山内僧衆によって開眼法要が厳修された。
龍は仏法を守護する存在として禅宗寺院の法堂の天井にしばしば描かれてきた。
また「水を司(つかさど)る神」ともいわれ,僧に仏法の雨を降らせると共に,
建物を火災から護るという意味がこめられている。
しかし,建仁寺の800年にわたる歴史の中で法堂の天井に龍が描かれた記録はなく,
この双龍図は創建以来,初めての天井画となる。
通常の雲龍図は大宇宙を表す円相の中に龍が一匹だけ描かれることが多いが,
この双龍図は阿吽(あうん)の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図が用いられている。
そして二匹の龍が共に協力して仏法を守る姿が小泉画伯の重厚かつ独特の水墨世界観で表現されているといえる。

鐘楼の鐘を見ると
豊臣家の家紋
織田信長供養塔
方丈前庭の七重石塔(桃山)はもと十三重石塔で,
織田有楽斎(うらくさい)が1582(天正10)年本能寺の変で倒れた
兄信長の追善供養のため建立した。

田村月樵(たむら げっしょう) 遺愛の大硯
建仁寺を訪ねた一番の目的なんですp(^-^)q

安国寺恵瓊首塚(あんこくじえけいくびづか)
安国恵瓊は天文7(1538)年,安芸国守護武田氏の一族として生まれた。
天文10(1541)年,大内氏との戦いで武田家が滅亡し,
当時4歳だった恵瓊は安国寺に身を寄せることとなる。
以後12年間,当寺で仏道修行に精進し,16歳のとき生涯の師と仰ぐこととなる笠雲恵心に巡り会う。
この直後,恵瓊は京都東福寺に入り,五山禅林の人として修業を重ねた。
そして,恵瓊35歳の時,正式に安芸安国寺の住持となり,
この頃から毛利家の政治にかかわる外交僧として活躍をはじめる。
羽柴秀吉が率いる織田軍が中国地方に侵攻してきた際には,
毛利氏の使者として秀吉との交渉にあたり,この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まったといえる。
やがて,天下人となった秀吉は恵瓊を直臣の大名に取り立て,伊予国二万三千石を与えた。
また恵瓊は,建仁寺の方丈移築をはじめ東福寺の庫裏の再建など,
旧来の建築物の修復に関与し,多くの功績を残している。
その後恵瓊は慶長5(1600)年,関ヶ原の合戦において主家毛利氏を石田三成らの西軍に味方させ,
自身は西軍の最高首脳として暗躍するも,小早川秀秋が東軍に内応したこともあって,西軍は敗退。
恵瓊は毛利家西軍荷担の罪で同年10月1日,京都六条河原で斬首され,63歳の波乱の生涯を閉じる。
この首塚はその恵瓊の首を建仁寺の僧侶が持ち帰り,ゆかりのある当寺の方丈裏に葬ったものである。

東陽坊
利休高弟の一人,真如堂長盛(ちょうせい)の好みといわれ,
秀吉の北野大茶会にて紙屋川の土手に建てられた副席と伝える。
手軽い屋根の構成が魅力ある草庵茶室の外観を形づくっている。
内部は二帖台目の茶席,一帖の合いの間,二帖台目向板の控室,板の間の水屋からなる。
二帖台目席の最も優れた規範的な形といわれている。
茶室南側には豊太閤遺愛の烏帽子石が据えられている。





 対島行列輿
江戸時代に入ると,五山派寺院も戦国の荒廃から復興に向かうことができた。
徳川幕府における五山派寺院に対する保護と統制は,足利幕府と大同小異であった。
寛永12年(1635)「五山十刹諸山之諸法度」という寺院統制令が制定され,
学徳兼備の五山僧を「碩学(せきがく)」と呼び一定の禄が与えられるようになった。
その碩学に,建仁寺では「古澗慈稽(こかんじけい)」「三江紹益(さんこうじょうえき)」「利峰東鋭(りほうとうえい)」の三師が推薦された。
また,五山僧は漢文に関する知識が広く,これが外交文書作成の面から,江戸時代の外交に一役買うことになる。
「対州修文職(ついしゅうぶんしょく)」である。
「以酊庵修簡職(いていあんしゅうかんしょく)」とも呼ばれる。
以酊庵というのは,九州長崎の対馬にあった寺の名である。
この寺は対馬の太守(たいしゅ)・宗義調(そうぎちょう)の請いに応じ
景轍玄蘇(けいてつげんそ)が朝鮮との通講の任に当たった天正8年にはじまる。
徳川幕府は寛永12年南禅寺を除いた五山寺院の天龍・相国・建仁・東福の四山碩学中より「対州文職」を選出,
輪番制で以酊庵に出張駐在させることになった。
この対州修文職は慶応2年(1866)まで230年続くことになる。
この間87名のべ126名の輪番(りんばん)僧が赴任している。
これらの僧は当時の五山の代表的人物で,建仁寺からは18師が名を連ねている。





庭を見ているといつまでも時間を過ごしそうになりました(^v^)
法堂
塔頭の両足院

今日まででしたが「初夏の特別拝観 半夏生(はんげしょう)の庭園特別公開」
現在の境内には,南の正門のほか,西と北とにそれぞれ門がある。
そのほかにも出入り口があり,一般の人の通り抜けが多い。
駐車や車輛の通行を禁止しているが,その制札を黙殺してバイクやタクシー,
おまけにトラックまでが公道と間違えて,いさましく境内をつっ走っている。
「春寒や八方抜けの建仁寺」と,誰かが詠んだ。
うまく実感をとらえている。
そのむかし開山の弟子たちが頭をいためた鴨川の洪水には,いまでは悩まされないが,
この車の洪水という,新しい被害が頭痛のたねになりつつある。
最近門ごとに,古文化財と違和感のある,いかつい鉄柵を施し,
一定の場所に監視人を置くようになったのは,その防衛手段にほかならない。
 (P81~82)
(『古寺巡礼 京都6 建仁寺』秦恒平・伊藤東慎著/淡交社/昭和51年11月発行より)
現在淡交社より『新版 古寺巡礼 京都』シリーズが刊行されています。
建仁寺は『第23巻 建仁寺』に収録されています。

三門
放生池
勅使(ちょくし)門(国重文・鎌倉)は柱や扉に
戦乱の矢の痕があるのことから矢立門・矢の根門ともいう。
元来,平重盛の六波羅邸の門,あるいは平教盛の館門を移健したものといわれている。

摩利支尊天堂(禅居庵

恵美須神社(えびすじんじゃ)
事代主神(ことしろぬしのかみ),少彦名神(すくなひこなのかみ),大国主神を祀る。
社伝によれば,建久2年(1191),栄西禅師が宋(中国)よりの帰途,
舟が暴風雨に遭い遭難しそうになったが,海上に恵美須神が現れ,
その加護により難を免れたといわれ,建仁2年(1202),建仁寺創建に当たり,
境内に恵美須神を祀り,建仁寺の鎮守社としたのが当社の起こりである。
応仁の乱後,建仁寺再建の際も同所に再建され,
今もなお当地の産土神(うぶすながみ)として人々の崇敬を受けている。
境内の岩本社には,平安時代の歌人在原業平(ありわらのなりひら)を祀っている。
また,財布塚・名刺塚は,古くなった財布や名刺の供養のため築かれたものである。
毎年1月10日を中心として前後五日間行われる「十日ゑびす」の大祭には,
全国各地から商売繁盛・家運隆昌・交通安全を祈願するため多くの人が参詣する。
  京都市


お願いする時は(^v^)

優しくトントンと叩いてください
(ゑびす様のお肩をたたくお詣りです
ノックをされるように優しくお願いいたします)

一気に蒸し暑くなり喉が渇きました(^_^;)
こんな時は,お茶がいいですねp(^-^)q
いつものことですが,転記間違いなどがあると思いますm(__)m