2015年7月23日木曜日

安祥院

今日は,循環器科の受診日。
診察を終えた後に京都に向かいました。
京阪三条で降りて4月2日に紹介した「篠田屋」さんでお昼(^_-)
前回気になっていた…(カツカレーではありません(^v^)…)
店主さんにご飯の量を少なめにしてもらいました(*^^)v
それでもお腹がいっぱい…
Kazeが入店してからしばらくすると親子(アメリカの方かな?)が入ってこられた。
お母さんが天ぷらそばを注文されました。
店の方との会話からよく来られるみたい(^v^)
息子さんも同じ天ぷらそばを箸を上手に使って食べておられました。
外国の方も箸を上手に使う方が増えましたよねp(^-^)q
おすすめメニュー」としてこう書かれていました(^v^)

皿盛(さらもり) 650円
御飯の上にカツをのせてカレーうどんのルーをかけたもの,ちょっと和風な感じがいい!
ボリュームたっぷり!!ガッツリ食べたい方におすすめ。
そのまま食べても,ソースをかけても,七味をかけてもOK!


学生時代に食べたかったな~!(^^)!
京阪電車で「清水五条駅」に戻り五条通を上って行きました…
午前中は大雨が降ったりしましたが…傘をささずに歩けました(*^^)v
若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)
応神(おうじん)天皇(八幡神(はちまんしん)の主神)と
その父母・仲哀(ちゅうあい)天皇及び神功(じんぐう)皇后を主祭神とし,
左の相殿(あいどの)に仲恭(ちゅうきょう)天皇を祀(まつ)っている。
また,昭和24年(1949)に右の相殿に陶祖神の
椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が合祀(し)されたことから,
「陶器神社」としても知られている。
平安時代の天喜(てんぎ)元年(1053)に,
後冷泉(ごれいぜい)天皇の勅願により源頼義(よりよし)が
六条醒ヶ井(さめがい)(現在の西本願寺の北東辺り)に創建したのが当社の始まりと伝えられ,
当初は六條(ろくじょう)八幡,左女牛(さめがい)八幡とも呼ばれた。
源氏一族や武士からの信仰が厚く,
室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め,隆盛を極めた。
その後,応仁の乱により荒廃し,
社地を転々として慶長十年(1605)に五条坂のほぼ中央に当たる当地に移された。
現在の社殿は承応(じょうおう)三年(1654)に再建されたものである。
毎年八月七日から十日までの四日間,若宮祭とともに陶器祭が行われ,
五条坂一帯で盛大に開催される陶器市は多くの人でにぎわう。
また,昭和60年(1985)には若宮八幡宮前に,
五条坂の先人及び陶器祭運営功労者への感謝を意を込めて,
『清水焼発祥之地 五条坂』の記念碑が建立された。
  京都市

(いつものことですが,転記ミスがあると思いますm(__)m…)
なんかハート♡型に見えるのですが…
こちらには

蓬莱石(ほうらいせき)の由緒(ゆわれ)
若宮八幡神祠に一奇石あり其の名を蓬莱という。
足利尊氏将軍かねてより若宮の神を深く信仰せしが病悩にかかりし折特に立願せられ,
病癒え,これを祝して珍宝七種を献じ敬謝せり,この石は其の一つ也。
其の形勢巨鼈(べつ)の如し。
戴山蓬莱の石,良(まこと)に以(ゆえ)あるなり。
云々(蓬莱山は渤海の東に峙(そばだ)ち神仙不死の薬ありと古事にあり)……
必ず神霊は之を(お加護)英士に与えるものなり……。と記してある。
即ち,この蓬莱石には不可思議な御神徳後加護のある貴重な宝石である。
追記,この蓬莱石は御本殿の片隅に埋れていたものが最近御神託により発見され,
約650年振りに世に出されたもので御神威新かな石である。
  (古文書抜粋による)

孝明天皇御胞衣埋納所(こうめいてんのうおんえなまいのうしょ)
孝明天皇(1831~66)は仁孝天皇の第4皇子で,
弘化3(1846)年践祚して第121代天皇となった。
公武合体・鎖国攘夷を貫き,幕府に対して海防強化を要求し,
安政五カ国条約を拒否した。
痘瘡で死去したとされるが,毒殺説もある。
この石標は孝明天皇の胞衣を埋納した地を示すものである。
埋納については,『孝明天皇紀』第一(降誕)に詳しい。
胞衣(えな)とは胎盤のことをいい,かわらけに胞衣を入れ,
のし結びや小刀を副えて吉方の土中に埋める習俗があった。

(「フィールド・ミュージアム京都」)
五条坂を上がると次の目的地が左側になるので歩いたのですが
左側は道路で通行禁止でした…
今日の一番の目的地が見えてきましたp(^-^)q
安祥院(あんしょういん(浄土宗))
942(天慶5)年乙訓(おとくに)郡大藪(おおやぶ)村に護国院として開創,
その後荒廃していたのを,1725(享保10)年木食正禅養阿(もくじきせいぜんようあ)が現在地に復興した。
木食とは米を食べず,木の実や草の根などの生食だけで修行する僧をいう。
養阿は日岡峠を開削した社会事業家でもある。

(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)

大日三尊・光明真言碑
西京極・佃橋から移された橋桁石
地蔵堂に祀る地蔵尊は,参詣者が日数を決めて祈願するため
日限(ひぎり)地蔵とよばれるそうです。
木食上人の寺として調べていると,
「安政の大獄」で真っ先に捕えられた梅田雲浜(うんぴょう(源次郎))の墓があることを知りました。

雲浜の死後3年,姪の登美子が雲浜元服時の前髪を小浜からこの寺に移した。
墓石には「雲浜先生之墓」と刻まれている。

裏面を全部写せなかったのですが…

裏面には,建墓の由来が次のように刻まれている。
「先生姓梅田,諱(いみな)義質(よしただ)後更定明(さだあき),
安政六年己未(きび)九月十四日歿於江戸,亨年四十五,
女性阿富得遺髪合葬于元配上原氏墓,故友門人等建」

(『幕末歴史散歩 京阪神篇』一坂太郎 中公新書 2005年)

今日,一番の目的が…
石造不動明王は,上人の発願により,故あって狸谷山不動院から移したものだそうです。

石室にはいまもミイラとなった上人が即身成仏を志して趺座(ふざ)しているといわれています。
知恩院宮栄貞法親王が描かれた「木食正禅画像」などを見ますと上人は,
直径1メートルに及ぶ特大の笠をかぶり,胸に重い鉦(かね)をかけ,
素足に草鞋(わらじ)の姿で,昼夜の別なく洛中を廻り,
念仏勧進(かんじん)にはげまれたのであります。
(栞『安祥院略記』より)


そして安祥院の近くにある西光寺を訪ねました。
(清水坂から入りました)
西光寺(さいこうじ(浄土宗))
本尊は阿弥陀如来。
950(天暦4)年空也(くうや)が山科に建てた空也寺が起源といわれ,
廃絶していたのを江戸前期に再興,1749(寛延2)現在地に移した。
本堂の北東に空也の遺骨を納めた廟堂があり,
1683(天和3)年建立の石碑には黒川道祐(どうゆう)の撰文を刻む。

(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)
読めません(-_-;)
観光客が気がつかない…
5月14日に入った「力餅食堂」は,今回は通り過ぎて…
これまで何度か紹介している「幽霊子育飴」でいつものように(^_-)
愛宕念仏寺元地(おたぎねんぶつじもとち)
愛宕念仏寺は,醍醐天皇(885~930)勅願で,延喜11(911)年伝燈大法師千観(918~83)の開基。
千観は空也(903~72)の教えを受けて熱心に念仏を進め,念仏上人とも呼ばれたので念仏寺の称が生じたとする。
天台宗延暦寺派で,本尊は千手観音。大正11(1922)年右京区嵯峨鳥居本に移転した。
この石標は愛宕念仏寺の旧地を示すものである。

京都市歴史資料館情報提供システム
宮川町通
皿盛のご飯の量を減らしてもらったのは(^v^)
中華そばを食べたかったのです(*^^)v
心筋梗塞で入院した時に,退院後,栄養士さんに
「ラーメンを食べてもいいですが,スープを全部飲まないように!」
とくぎを刺されていました(^^ゞ
スープを飲まないのなら喫茶店でケーキセットを食べるのと
カロリーは変わらないだろうなと勝手に決めつけて(^v^)
「力餅食堂」はチェーン店でなく暖簾分けですので,
お店によって微妙に麵や具材などの味が違うので楽しみです。
今回の力餅食堂も美味しかったです(*^^)v
大雨が降ったので…
普段は水量が少ない高瀬川も…