2015年3月23日月曜日

四天王寺

今日は,四天王寺さんにお詣りです。
境内はお彼岸の参拝者だけでなく出店もいっぱいでした(*^▽^*)
三面大黒堂(さんめんだいこくどう)
建立 未詳
再建 嘉永二年(1849)
大黒堂は,もとは南大門の西,万灯院の後ろ,
梅園中にあったのを現在の地に移転した。
後年に付設された大黒堂の拝殿には,大根を描いた提灯が掛かる。
大根は大黒天の使者,鼠の好物だからとも,
大黒天が飲食を司る神様であるからとも伝えられている。
大黒天は,ヒンドゥー教のシヴァ神の化身である
マハーカーラ(摩訶迦羅天)が元となり出来た密教の神であり,
古代インドでは荒々しい戦神であった。
向かって正面に大黒天,右面に弁財天,
左面に毘沙門天(びしゃもんてん)の三面を持ち,三面大黒天と呼ばれる。
また仏教の天部の神として位置づけられており,
一日に千人の僧を養う功徳を得るということから,
わが国には,伝教大師最澄が天台山から持ち帰り,当初は主に天台宗で信仰された。

室町時代になると,真言宗や日蓮宗など他宗においても盛んに信仰され,
のちに大国主命と神仏習合して,七福神の一神として庶民に信仰されるようになった。

日本の大黒天は,微笑の相が加えられ,
さらに江戸時代になると米俵に乗り福袋と打出の小槌を持つ,
一般にも良く知られた長者形で表されることが多い。

大黒天の縁日に加持された黒豆七粒をお米と炊き,
家族で分けて食べると無病息災で過ごせるという風習があり,
現在も月に一回の縁日にお詣りすると,法要にて加持された黒豆七粒が配れる。

○真言
オン・マカ・キャラヤ・ソワカ。(大黒天)
オン・ケンバヤケンバヤ・ソワカ。(如来荒神)
オン・ソジリ・シュタ・ソワカ。(妙見菩薩)
ナマク・サマンダ・バサラナン・センダン・マカロシャナ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン。(不動明王)

(注:転記間違いがあると思います)
元三大師堂(がんざんだいしどう)
 重要文化財
 創建 未詳 平安時代
 再建 元和九年(1623)

このお堂は,寺伝によると平安時代,天台宗の開祖伝教大師最澄によって創建されたと伝えられます。

現在の建物は,大坂冬の陣に焼失のを元和九年(1623)8月19日に徳川秀忠公が椎寺普門院としてこの地に再建したものです。
再建当初の堂内には伝教大師と普賢菩薩が安置されていましたが,後に元三大師を本尊として祀るようになり,元三大師堂と呼ばれるようになりました。

元三大師とは,今から約千年前に実在した平安時代の僧,良源(りょうげん)のこと。
延喜十二年(913)9月3日にお生まれになり,
十二歳にして比叡山に学ばれ,
優れた仏教教育者として多くの優秀や僧侶を育成された方で,
第十八代天台座主を務められた比叡山延暦寺の中興の祖と仰がれる方です。
天皇より「慈恵(じえ)」という大師号を賜りました。
また,寛和元年(985)1月3日がご命日であるので,元三大師と称されるほか,
法力・霊力の持主として,自ら夜叉と化し災厄を払ったという伝説から,
魔を払う角(つの)大師・鬼大師・魔滅(まめ/豆)大師など,
様々な名で呼ばれ厄除けの守り神として江戸時代に各地で元三大師信仰が起こりました。
大阪では当堂が信仰の中心でありました。

大師は,比叡山横川にて,密教の行法である「求聞持法(ぐもんじほう)」を修行されており,
以来,無限の智慧と記憶力を得,
神力を獲得されたと伝わることから智慧・学力向上の信仰が広まり,
入試合格・学業成就を願う多くの生徒やご家族が当堂に参拝されます。

堂内には,中央奥から元三大師・不動明王・鬼大師を,
左の間に普賢菩薩,右の間に僧形文殊菩薩をお祀りしております。

昭和37年(1962),文化財保護法により半解体修理が行なわれました。
ご本尊の鬼大師は天保三年(1832)の製作であり,
胎内には法華経八巻が納められています。


発病前に比叡山の元三大師堂を訪ねたことがあります。
これまで何度も四天王寺を訪ねながら知らずにいたのが…
高橋多一郎父子墓
高橋多一郎は文化十年(1813)生まれ,水戸藩徳川斉昭に仕え,
十五石五人扶持という小身の出自であるが
性利発,抜刀術も良くし,徒士目付,祐筆,床机隊戦士等を務めていた。
安政の大獄の翌年,高橋ら水戸藩士は,薩摩藩の高崎五六らと組んで,
大老井伊直弼の暗殺計画を立て,万延元年(1860)三月三日,
十八名の浪士は江戸城桜田門外で直弼を襲い惨殺した。
その後,浪士は各地にて幕吏の厳しい詮議を受けることとなる。
高橋父子は四天王寺の塔頭の一つ,
秋の坊の北隣にあった茶店春日屋まで逃げてくるが,
もう駄目らしいと覚悟を決め,四天王寺の門内に入り,
大黒堂の東にあった寺侍小川欣司兵衛方の奥座敷を借り受け,
後始末の費用にと六十二両を差し出し,
祖先が武田信玄からもらったという貞宗の名刀を故郷へ届けるよう言い残し,時世を残し切腹した。
享年四十七歳であった。
父の死を見届けた庄左衞門はその時まだ十九歳であったが,父の後を追って自決した。
欣司兵衛が預った金子で墓を建て,懇ろに葬ったのがこの墓である。
明治二十四年に多一郎は正四位,明治三十五年に正左衞門も従五位を贈られている。
(『大坂史蹟辞典』より抄出)

「怨霊(おんりょう)消滅」の碑は寺侍小川が建立したのが最初ですが
現在のは昭和62年の再建です。
墓地には他に「近畿大学医学部献体者供養塔」
「彦六座主 寺井氏碑」
側面には…
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)(右)
古代インドの十六羅漢(らかん)の第一尊者.
羅漢とは正式には阿羅漢(あらかん)といい,尊敬される仏教の聖者を意味する.
神通力(じんづうりき)と説法に優れ,獅子吼(ししく)第一と呼ばれた.
獅子吼とは仏(仏陀・釈迦如来)が人々に向って法を説く姿が堂々としていて,多くの悪魔達もみな降伏することを,百獣の王,獅子が吼(ほ)えている様に例えた語である.
聖徳太子の書かれた『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』に「獅子吼というは,自ら大理(だいり)を宣(の)ぶるにおそれる所無し」と記されている.
賓頭盧尊者は古来,撫仏(なでぼとけ)として多くの人々の信仰を集め,病ある者が患(わずら)っている部分と同じ尊者の箇所(かしょ)を撫でると,その病が平癒すると伝えられている.
   総本山 四天王寺

そして左におられるのが
「おもかる文殊」
重ければ知恵がさずかり願いがかないます。
ちなみに六時礼讃堂におられる「おもかる地蔵尊」は(*^ー゜)
知恵は,重い方がいいのでしょうか?('-'*)
伏見稲荷大社の「おもかる石」と「三宝のおもかる石」は
両方とも軽い方が願いがかないます。
(献体者)慰霊碑 大阪市立大学医学部(左) 大阪歯科大学(右)
戦災無縁佛慰霊如来地蔵尊
高橋正純紀功碑
肥後の出身で,幼名鉄之介,号は清軒。
長崎でボードウインに医学を学び,大阪仮病院設立の折来阪し,
ボードウインの後を継ぎ大阪医学校二代目のエルメンスに協力した。
明治六年(1873)府立大阪病院医院長となる。
明治十四年,退職し北区若松町に,高橋病院を設立する。
明治二十四年一月,流感に罹り他界す。
行年五十七歳。
大阪大学前にあるエルメンス記念碑は,正純が中心になって設立したものである。

志太野坡の墓(左) 松尾芭蕉の墓(右)
「大阪再発見!」の松尾芭蕉の墓」というHPが参考になると思います。
以前にも紹介しましたが

安政地震津波碑(あんせいじしんつなみのひ)
安政元(1854)年11月4日・5日の両日に相次いで発生した安政東海地震と同南海地震による犠牲者を供養し,
津波災害の状況を後世に伝えて警告するため,町人一同にによってその翌年秋,四天王寺に石碑が建立された.
(現在,この石碑は無縁墓の最上段に置かれているが,もとは元三大師堂の池端に独立して立てられていた.
大阪を襲った大災害の記録として重要な意味をもっている.)

[報告]大阪・四天王寺,安政南海地震津波碑文の判読」(PDF形式)
こんなに仏花が飾られているのは初めて見ました
今日は,義弟の法要でしたが,
母の体力を考えると法要に間,私と母で休憩所で待っていて
法要終了後にお墓参りをすることにしました。
参道で…
「涼しい店内で経木 書きます」と書かれていましたが…
今日は涼しいどころか寒かったです…