2014年12月29日月曜日

七条~六波羅蜜寺~三条

誰にも会わない通路
見える橋は10月9日に京都国立博物館を訪ねた時に紹介した「正面橋」
正面橋を通過するとある(→)
この歩道を通ったのに気がつかなかったな…
元和キリシタン殉教の地
1619年10月6日,鴨川の六条から七条の間、現在の正面橋のあたりで,将軍秀忠の命により,52人の信者が火あぶりの殉教を遂げた。
うち11人は子供であった。
日本の教会の殉教史で大殉教と呼ばれる殉教は三つである。
1622年9月10日の長崎の殉教,1623年12月4日の江戸の殉教,1619年10月6日の京都の大殉教である。

(「7.京都の大殉教」カトリック中央協議会より 一部文章を変えています)
「 愛宕(おたぎ)念仏寺元地」の石碑
1922年(大正11)に移されました。

この辺りは 弓矢町
八坂神社は,明治以前は祇園感神院(かんじんいん)あるいは祇園社という名でよばれ,10世紀後半からはじまった祇園御霊会(ごりょうえ),すなわち祇園祭で有名である。
祇園社は,平安時代末期から清水坂下に住む「坂者」に,神域で発生した牛馬の死骸の処理,小動物の死骸の片付けを依頼するようになる。
死を「穢れ」として忌みきらう平安末期の風潮のなかで,「清目(きよめ)」役をになう坂者はその地位を向上させ,祇園社の下級神人(じにん)に組み込まれた。
ここから,彼らのことを「犬(いぬ)神人」とよぶようになる。
中世にはいって祇園社の領主権が強まると,彼らの警察力・軍事力の一部を担当するようになり,境内の清掃と清目以外に甲冑(かっちゅう)と弓矢の製造を行うようになる。
祇園祭の山鉾巡行のおり,「犬神人」は白い布で顔をおおい,その先頭にたって清目を行いながら,甲冑をまとって行進し,祭り全体の警備も行うようになった。
彼らは,普段みずから製造した弓の弦(つる)を売り歩いたので,「つるめそ」「弦売り」とよばれることもあった。
弓矢町は,かつて彼らがこの辺りに住んでいたことからきている。
祇園祭前になると,弓矢町では,昭和30年代まで祇園祭の山鉾巡行に使われた鎧兜(よろいかぶと)が公開される。

(『京都洛東・洛南散歩24コース』より)
桂光山西福寺
人王五十二代嵯峨天皇の御代,弘法大師当地に地蔵堂を建立し御自作の土仏の地蔵尊を安置せられる。
ここは鳥辺野の無常所の入口にあたり,世に「六道の辻」と謂います。
昔は六ッの仏堂がありましたが,現在は,三仏堂が残っており,毎年八月のお盆には庶民の伝統行事「お精霊迎え」の六道詣りが幾百年も続けて行なわれています。

弘法大師六道の辻地蔵堂開基の頃,嵯峨天皇の皇后になられた橘嘉智子姫(檀林皇后)がしばしば御参詣になられて,弘法大師に厚く御帰依あそばされ深く仏教をきわめられしとの事,亦弘仁五年皇子正良親王御病いの時,当地蔵尊に御平癒御祈願をされ,無事御成長なされて,後に目出度く五十四代仁明天皇の御位におつきあさばされたので,世の人々は,六道の辻地蔵尊を子育地蔵尊或いは六はら地蔵などと呼ぶようになりました。(「西福寺略来」より)
訪ねて来たのが「六波羅蜜寺」です。
一願石
祈りをこめて 金文字から手前に三回おまわしください。


鴨さんのブログの記事「六波羅蜜寺の一願石」に
梵字の書かれた車石を回し  しっかりお願い事をしてきました。
「平清盛公乃塚」(左)

「阿古屋塚」(右)
阿古屋は,『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』に現れる五条坂の遊女で,悪七兵衛景清の愛人だった。
景清が鎌倉の土牢を破って逃げたので,取り調べを受ける。
その時に,琴・三味線・胡弓(こきゅう)の三曲を奏でさせられたが,音色は澄みわたって心の乱れをつゆ見せなかったので,景清の行方を知らぬものとして許された。
これが有名な「阿古屋の琴責め」である。
五条坂に遊所があったという記録はないが,江戸時代の初めごろ,二年坂あたりには,水茶屋が並んでいて,阿古屋茶屋と呼ばれていたらしい。
作者の長谷川千四(せんし)は,これから取ったのだろう。
舞台が生んだ伝説の一つである。

(『日本の伝説1 京都の伝説』駒敏郎・中川正文/角川書店(絶版)より)

本堂前の阿古屋塚は,『壇浦兜軍記』に出てくる悪七郎兵衛景清の情人阿古屋の塚とも,下火(あこ)すなわち遺骸を焼く燃料に火をつける作法にもとづく火葬場ともいわれる。
(『京都洛東・洛南散歩 24コース』より)

壇浦兜軍記【だんのうらかぶとぐんき】
阿弥陀石仏
「無事かえる」なんですが…
冬眠の時期に水をかけられて機嫌が悪そう(*^▽^*)
一番の目的は「宝物館
館内は撮影禁止なのでパンフレットより
空也上人像
空也さんに会いたくて何度も訪ねています(*^-^*)
お正月の三ヶ日にお参りすると「皇服茶」をいただけますよ(*^O^*)/
鬘掛(かずらか)け地蔵
まことに優しい顔をしたお地蔵さんだが,左手に一束の毛髪を握っていて,それがどきりとするほど生々しい。
近所にふだんからこのお地蔵さんを深く信仰する女が住んでいた。
母親が死んだのだが,貧しくて葬式が出せないで困っていると,見知らぬ僧が訪れてねんごろに回向(えこう)をし,自分で亡骸(なきがら)を背負って墓地へ埋葬してくれた。
お布施をしようにも何もないので,女は母親の鬘を渡した。
忌が明けて,お地蔵さんを詣ってみると,その左手には渡した鬘が握られていたという。

(『日本の伝説1 京都の伝説』角川書店(絶版)より)
空也上人が開創されたときは「西光寺」で,空也上人死後に「六波羅蜜寺」となりました。
 六波羅蜜寺を出て,西福寺の方向に戻ると「みなとや幽霊子育飴本舗
由 来
今は昔,慶長四年京都の江村氏妻を葬りし後,数日を経て土中に幼児の鳴き声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし妻の産みたる児にてありき,然るに其の当時夜な夜な飴を買いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる後は,来らざるなりと。
此の児八才にて僧となり修行怠らず成長の後遂に,高名な僧になる。
寛文六年三月十五日六十八才にて遷化し給う。
されば此の家に販ける飴を誰いうとなく幽霊子育ての飴と唱え盛んに売り弘め,果ては薬飴とまでいわるゝに至る。
洵に教育の上に,衛生の上に此の家の飴ほど良き料は外になしと今に及んで京の名物の名高き品となれりと云う。
 
鴨さんのブログに「洋食も花街を支えて グリル富久屋さん」と紹介されていた洋食屋さん。
Kazeもオムライスを食べたかったけど…まだ,10時では…(T.T)
松原橋を渡り
これまたほとんど人に会わない路地
本間清一郎(ほんませいいちろう)遭難地
文久二年(1862)閏(うるう)八月二十日夜,勤王の志士・本間清一郎はここで襲われた。
清一郎は越後(現在の新潟県)に生まれ,文武両道に秀で弁舌も巧みで,友人も多かったという。
江戸に出て遊学し,安政の大獄の後,京の都に上って尊王攘夷活動に身を投じた。
特定の藩に属さなかったため,自由に行動することができ,公卿にも接触を図り,長州や薩摩,土佐の藩士にも遊説をし,尊王攘夷思想の急進派とされていた。
しかしその活動は伏見「寺田屋事件」で封じられ,清一郎はその頃から酒色におぼれ,仲間にも罵声を浴びせるようになり,同志からも次第に嫌われるようになったという。
この夜,先斗町三条の料亭で遊び,四条の料理屋を出た帰り道を清一郎は襲われた。
この南側の路地を木屋町へ逃げようとしたが,前から二人,後ろから六人にはさみ討ちにされ惨殺された。
襲った八人の中には薩摩藩の田中新兵衛や土佐藩の岡田以蔵(いぞう)もいたという。
本間清一郎,時に二十九歳であった。
      京都市

昭和3年(1928年)に建築された立誠小学校(1993年閉校)。
 日本映画発祥の地
当地は明治30年(1897),実業家であり,後に大阪商工会議所会頭も務めた稲畑勝太郎(いなばたかつたろう 1862~1949)が日本で初めて映画(シネマトグラフ)試写実験に成功した場所である。
明治29年(1896)万国博覧会の視察と商用でパリを訪れた稲畑は,フランス留学時の旧友リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフ(映写機兼カメラ)と,その興行権,フィルムを購入し,リュミエール社の映写技師兼カメラマンのコンスタン・ジレル伴って帰国した。
そして翌明治30年1月下旬から二月上旬にかけての雪の降る夜,京都電燈株式会社の中庭(現在の立誠小学校跡地)で国内初の試写実験に成功した。
映画の上陸は,単にヨーロッパの文化や最新技術を日本に伝えただけでなく,人・もの・事物を記録し伝える映像メディアの始まりであり,新しい娯楽・芸術産業の始まりであった。
この地を起点にした日本映画は二十世紀を代表する国民娯楽に成長していった。 
   京都市

40年ほど前の学生時代に訪れた「大黒屋
このお店でカルチャーショックを受けた食べ物があります(*^ー゜)
真ん中に乗っているのはショウガ
学生の時に「たぬきそば」を頼んだのですが…
あんかけだったのでビックリ\(◎o◎)/!
そしておあげさんがちいさく切られている…
大阪と京都の食文化の違いを感じました
上に乗っているショウガといい,あんかけのおかげで体がホカホカになります(*^-^*)
橋の下に…
高瀬舟がつながっていました。
ピエロの守衛さんかな(*^▽^*)
ヌーッと恐竜が顔出した…
下の顔は叫んでいるみたいだし
上の顔はなんかとぼけた顔です(*゜∀゜*)

なんだか分かりますか(?_?)
 ケーキセット(レモンタルト&珈琲)で休憩(^_^)v
答えは,ステンドグラスです(*^ー゜)
フランソア喫茶室
来た時は厚い雲が覆っていて今にも泣き出しそうでしたが
帰りには日差しが見えました。
注)いつものことですが転記間違いなどがあると思います(o_ _)o