2014年11月24日月曜日

知恩院

昨日,訪ねた京都町歩きの続きです(*^O^*)/
すごい足場ですね!「知恩院
知恩院
法然が吉水に結んだ草庵にはじまる浄土宗の総本山。
正しくは華頂山(かちょうさん)大谷寺(おおたにじ)知恩教院。
法然の没後,弟子たちによって廟堂(びょうどう)がたてられたが,1227(嘉禄(かろく)3)年に比叡山僧徒によって破却された。
1234(文暦(ぶんりゃく)元)年,勢観房源智(せいかんぼうげんち)が廟堂を復興し,諸堂を建立して寺院の形態を整え大谷寺と称した。
応仁の乱(1467~77年)で堂宇(どうう)が灰燼(かいじん)に帰すると,開祖法然の御影(みえい)を近江国伊香立(いかだち)に一時移した。
兵乱が終息した1482(文明14)年に帰洛(きらく),旧地に戻って堂宇を再興した。
その後,知恩寺との地位争いがおこったが,1575(天正3)年に正親町(おうぎまち)天皇の綸旨(りんじ)によって知恩院が浄土宗総本山となった。
豊臣秀吉,さらに徳川家康によって庇護され,壮麗豪華な諸堂宇が建立,寺観が整備された。
1619(元和5)年,後陽成(ごようぜい)天皇第8皇子良純(りょうじゅん)法親王(ほっしんのう)が入寺し,初代宮門跡(みやもんぜき)となる。
1633(寛永10)年,失火によって三門・経蔵をのぞく堂宇のほとんどを焼失したが,徳川3大将軍家光によって復旧され,今日に至っている。
三門にかかる「華頂山」の額は霊元(れいげん)上皇の宸筆(しんぴつ)。
山内には三門・経蔵のほかに,御影堂(本堂)・大方丈(ほうじょう)・小方丈・勢至堂・唐門(いずれも江戸期・国重文)や,わが国最大の銅鐘(どうしょう)を有する大鐘楼・衆会堂(しゅうかいどう)(千畳敷)・法然廟などの諸堂が軒を並べ,壮観である。
寺宝に『紙本著色(しほんちゃくしょく)法然上人絵伝』や「絹本(けんぽん)著色阿弥陀二十五菩薩来迎図」(ともに鎌倉期・国宝)など多数。
なお「知恩院七不思議」として左甚五郎(ひだりじんごろう)の忘れ傘など,多くの伝承が残されている。

(『京都洛東・洛南散歩24コース』より)

蓮如上人御誕生之地
知恩院黒門(桃山時代)
初め知恩院は通り過ぎようと思っていたのですが…
黒門から見えた石垣が見事だったので…
石段を上がっていきました…
知恩院の忘れ傘
徳川家の援助の筆頭は知恩院でしょう。
家康が代々浄土宗の帰依者(きえしゃ)であった関係から徳川家の香華所(こうけしょ)と定められるのです。
すなわち家康は,生母伝通院((でんつういん)於大(おだい)の方)の菩提を弔うために寺領を寄進し,寺域を拡大しましたが,ついで秀忠(ひでただ)は,元和(げんな)五(1619)年,わが国で最大の楼門(ろうもん)といわれる山門を建立しています。
もっとも寛永十(1633)年の大火で堂舎の大半を焼失しましたが,家光はただちに再建に着手し,寛永十八年に完成しています。
現在の寺観はこの時にととのったものです。
ちなみにこの復興には,日光東照宮の眠り猫の作者として知られる,建築・彫刻の名工,左甚五郎もかかわっており,本堂と大方丈とをつなぐ「鴬張(うぐいすば)りの廊下」はその甚五郎の作といわれています。
甚五郎といえば,当寺にはもう一つ名物があります。
本堂の正面東寄りの軒さきを見げますと,金網のなかに傘が見えましょう。
俗に「左甚五郎の忘れ傘」と呼ばれるものですが,まさかあんなところに忘れるはずはなし,これは民家の妻板(つまいた)に「水」の字を切り抜いたりするのと同様,火除けのおまじないなのです。

(『京都史跡見学』村井康彦著/岩波ジュニア新書より )
左甚五郎の忘れ傘」については知恩院のHPを参照して下さい。

イチョウの葉が舞い降りてきました

なんか…
仏さまのような…
この桜は…
寝不足の子かな?
青蓮院(しょうれんいん)
天台宗三門跡の1つ。
一名を粟田口(あわたぐち)御所・東山御所ともいう。
1144(天養(てんよう)元)年,天台座主行玄(ぎょうげん)の営んだ三条白河房(しらかわぼう)に起源をもち,比叡山東塔南谷にあった行玄の住房青蓮坊の名をとって青蓮院と称し,最澄を始祖,行玄を1世とした。
鳥羽上皇の第7皇子覚快(かくかい)法親王(ほっしんのう)が入寺し,2世となり,門跡の称がおこった。
以来皇室・摂関家・足利家などの子弟が住持。
3世慈円(じえん)が寺地を後鳥羽上皇に献上して祇園の東辺十楽院にうつり,吉水坊(よしみずぼう)と称した。
一時期,三条白河に復帰するが,まもなく現在地にうつった。
慈円のころ,支配する寺社は300余りにのぼり,寺域は将軍塚から現在の知恩院に至る広大な地を占め,寺勢は頂点に達した。
応仁の乱(1467~77年)の兵火で焼失。
以後も再々火災にあい,そのつど再建された。
現在の殿舎は1895(明治28)年の再建。
天明の大火の際,光格(こうかく)天皇の仮御所となり,国の史跡に指定されている。
宸殿(しんでん)から書院の北にかけて広がる池泉(ちせん)観賞兼回遊式庭園,東山期の相阿弥(そうあみ)の作という。
また華頂殿奥の霧島の庭は小堀遠州(こぼりえんしゅう)作と伝え,明治末年に小川治兵衛の手で大幅に補作・改造されている。
寺宝に「不動明王二童子画」(通称「青不動」,平安期・国宝)や宸殿浜松ノ間の襖絵17面(江戸期・国重文)などがある。
なお宸殿から小御所への渡り廊下のかたわらにおかれた一文字手水鉢(ちょうずばち)は,豊臣秀吉の寄進という。
後桜町(ごさくらまち)上皇ゆかりの書院式茶席「好文亭(こうぶんてい)」(江戸期)も名高い。

(『京都洛東・洛南散歩24コース』より)

門跡(もんぜき)と尼門跡
皇族や貴族が入室した,特別の格式をもつ寺院のことを門跡(尼門跡)寺院とか,たんに門跡(尼門跡)と称しています。
その門跡・尼門跡寺院が,江戸初期にふえているのが注目されます。
これは後水尾天皇に連枝(れんじ)(兄弟,後陽成(ごようぜい)天皇の皇子女)や皇子女が多数あり,それらの多くが寺に入ったからです。
すなわち連枝では計二十五人のうち早世者(そうせいしゃ)などをのぞいて門跡九名,尼門跡四名を数え,また皇子女では計三十三名のうち門跡が九名,尼門跡が八名にのぼっています。
平安初期であれば臣籍にくだす,いわゆる賜姓皇族(しせいこうぞく)にされたでしょうが,平安末期以降は寺院に入れるようになりました。
これが門跡寺院が出現した要因です。
しかも江戸初期では,そうした門跡・尼門跡のなかに文芸に関心をもつものが少なくなく,これが他の公家や文人らとともに後水尾天皇(院)を中心とする宮廷サロンを形成し,最後の宮廷文化を開花させたのでした。
この後水尾天皇(院)を中心に展開した江戸初期の宮廷文化を,おもな年号をとって寛永文化と称しています。
(『京都史跡見学』より)
地下鉄の乗ろうと歩いていると…
坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡』とありましたが,
以前,訪ねた時と周りの様子が変わっている…
この後,本能寺などを訪ねましたが,後日,報告します(*^O^*)/