2014年8月11日月曜日

大阪城(大坂城)

今日は,朝一番で主治医の診察を受けて,その後,申請書類を提出に出かけました.
すぐに受理していただいたので暑いかなと思ったけど
大阪城を訪ねました.
大手門(おおてもん)
城の正面を大手(追手(おって))といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。
現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。
正面左右の親柱(おやばしら)の間に屋根を乗せ、
親柱それぞれの背後に立つ控柱(ひかえばしら)の間にも屋根を乗せた高麗門(こうらいもん)形式である。
屋根は本瓦葺(ほんがわらぶき)で、扉や親柱を黒塗総鉄板張(くろぬりそうててついたばり)とする。
開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。
親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継(ねつぎ)がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手(つぎて)は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。
門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている。

(城内にあった案内板や本から転記していますが,打ち間違いや誤変換があると思います(^^ゞ…)

大手口枡形(おおてぐちますがた)の巨石
枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の侵入を食い止める役割を果たした。
築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口桝形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。
大手門をくぐって正面に位置する大手見付石(おおてみつけいし)は、表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、

左の大手二番石(おおてにばんいし)は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、
右の大手三番石(おおてさんばんいし)は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島(しょうどしま)と推定されている。
現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。
この個所は当初肥後熊本藩加藤忠広(かとうただひろ)が築き、のちに筑後久留米藩有馬豊氏(ありまとようじ)が改築した。

重要文化財 多聞櫓(たもんやぐら)
大手口枡形(ますがた)の石垣の上に建つ櫓で,大門(おおもん)の上をまたぐ渡櫓(わたりやぐら)と,その右側に直角に折れて接続する続櫓(つづきやぐら)によって構成される.
徳川幕府による大坂城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが,天明3年(1783)の落雷によって全焼し,寛永元年(1848)に再建された.
土塁や石垣上に築かれた長屋状の建物を一般に多聞(多門)と呼ぶが,その名称は戦国時代の武将松永久秀(まつながひさひで)が大和国(今の奈良県)の多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来するといわれる.
現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で,高さは約14.7メートル,建築総面積は約710.25平方メートルある.
渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室,続櫓内部には廊下のほか9畳・12畳・15畳の部屋が計6室あって多数の兵や武器をたくわえることができ,枡形の内側に多くの窓があり,また大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落し」の装置が設けられるなど,高い防御能力を備えている.
大坂城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓があったが,現像するのはここだけである.



本願寺推定地と蓮如上人伝説
(「石山」という表現を使わなかったことについて)
当時は大坂御坊,大坂本願寺と呼ばれ,石山御坊,石山本願寺と書いた史料が一切ないからです.
「石山本願寺」というのは,後世になってから使われだした名称であることがはっきりしたので,最近はできるだけ「石山本願寺」と呼ばないようになってきています.
ではどうして「石山本願寺」と呼ばれるようになったのでしょうか?
それに関しては二つの話が伝わっています.


もう一つ別の話も伝えられています.
蓮如上人が現在の大阪城の場所を見初(そ)めて,御坊を建てようとして工事を始めたところ,まるで寺を建ててくださいとばかりに,礎石が地中から出てきたというのです.
蓮如上人は「これぞまさに仏縁の地だ」と感激したといいます.
礎石が埋まっていた山(台地)だから,「石山」と呼ばれるようなったという説です.
後者の話はおそらく事実ではないかと考えられています.
現在,大阪市中央区法円坂一丁目に「難波宮跡(なにわのみやあと)」の史跡公園がありますが,難波宮の範囲はあの公園内にとどまるわけではありません.
もちろん大坂城も,秀吉時代には,難波宮の史跡公園をはるかに越えて南に広がっていたわけですから,大坂城と難波宮の遺構は上下に重なり合う形で存在しています.
ですから,現在の大阪城公園にまで難波宮跡は続いているのです.
秀吉の大坂城築城のときも難波宮の礎石が出てきたようで,それとおぼしき石が石垣に使われています.
だから,後者の「石山」伝説は事実だったのではないかと考えられているのです.

(『大阪城ふしぎ発見ウォーク(旧版)』北川 央 フォーラム・A 2004年)
修道館からは
柔道や剣道に打ちこむ若者たちの声が聞こえてきました(*^-^*)
豊国(ほうこく)神社
茅の輪がありました(*^-^*)
明治元年(1868)の明治天皇大阪行幸(ぎょうこう)の時に,天皇は秀吉の名誉回復を宣言します.
徳川幕府によって剥奪された神号をもう一度秀吉に贈り,秀吉は再び豊国大明神という神様になります.
その時には,「大阪の地に秀吉を祀る豊国(とよくに)神社を復興せよ」という内容でした.
けれど,大阪のどこにつくるかということでもめているうちに,京都から,豊国神社はもともと京都にあったのだから大阪につくるというのはおかしいという訴えがなされ,結局,本来豊国神社があった京都に本社を建設することになりました.
そして大阪にはその別社を建てるという折衷案が決まりました.
先に誕生したのは,大阪の別社の方です.
中之島の山崎の鼻と呼ばれた場所,現在の中央公会堂のところに,明治12年に豊国神社ができました.
その後大正元年(1912)に,現在の大阪市役所のところに移り,市役所建設のため,昭和36年に秀吉ゆかりの大坂城内に移ってきました.
当初は,京都・豊国神社の別社という扱いでしたが,大正10年に独立し,現在は京都が豊国(とよくに)神社,こちらは音読みして豊国(ほうこく)神社となっています.

(『大阪城ふしぎ発見ウォーク(旧版)』北川 央 フォーラム・A 2004年) 
七夕神社もありました(*^-^*)



石山本願寺と大阪(大坂)
明応5年(1496),本願寺第8代宗主蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築いた.
「大坂」という地名が歴史上初めてあらわれるのは,明応7年(1498)11月21日付けの蓮如の『御文(御文書)』とされている.
この坊舎を中心にして周囲に土居と掘を巡らせた「六町の構」といわれた寺内町が形成された.
天文元年(1532)に山科本願寺が炎上すると,本願寺はこの地に移され,本願寺教団の中心となった.
大坂(石山)本願寺の寺内町では,御影堂・阿弥陀堂を中心に,六町二千軒におよぶ町屋が建ち並んでいた.
たくさんの職人や商人が生活しており,当時の堺とならぶ豊かな都市生活がくりひろげられていた.
やがて本願寺は織田信長と対立し,元亀元年(1570)から11年間に及ぶいわゆる石山合戦の後,大坂を退去し,鷺森,貝塚,天満を経て,天正19年(1591)に京都へ移転した.
一方,秀吉は大坂(石山)本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設した.
この大坂城は大坂夏の陣で炎上したが,江戸幕府によって再建される.
大坂(石山)本願寺の遺構はいまだ確認されていない.
しかし,この大阪城公園の辺りがその遺跡と推定され,現在の商業都市大阪の礎となったといわれている.
   大阪市教育委員会 
蓮如上人袈裟懸(けさがけ)けの松
梅林の手前に「南無阿弥陀仏」という六字名号(ろくじみょうごう)の石碑が立っています.
この字は蓮如上人自筆の名号から取っています.
この碑のうしろに,蓮如上人がこの地を見初めて大坂御坊を建てた時に,袈裟を懸けたという「袈裟懸けの松」の跡があります.
現在は枯れてしまって,巨大な根っこだけになっていますが,東・西両本願寺にとっては,かつての本願寺の跡を示す遺跡だということで,聖地のように信仰されていて,本願寺関係者や多くの門徒(本願寺の信者)の方々がここへお参りに来られます.
けれど,少しおかしい点もあります.
江戸時代の絵図にも,大坂城内に「蓮如上人袈裟懸けの松」が描かれているのですが,それは現在地ではなく,本丸の東側になっています.
いつ,どうして今の場所に移ったのかは,残念ながらわかりません.
果たして江戸時代の「蓮如上人袈裟懸けの松」と現在残されている根っこが同じ木なのか,それも謎です.
(『大阪城ふしぎ発見ウォーク(旧版)』北川 央 フォーラム・A 2004年) 

市正曲輪(いちのかみ くるわ)
現在の大阪城梅林の地は,豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐東市正且元(ひがしいちのかみかつもと)の屋敷がここにあったと伝えることから「市正曲輪」とよばれる.
江戸時代には,大阪城を守衛する役職の内,青屋口加番(かばん)・中小屋加番・雁木坂(がんぎざか)加番の小屋(公舎)が北から順に置かれていた.


青屋門(あおやもん)
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で,青屋門はその枡形(ますがた)の内側に建つ.
創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)ごろと考えられ,明治維新の大火によって被災し,その後陸軍によって改築されたものの,昭和20年(1945)の空襲で再び大破した.
昭和44年(1969),大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である.
現状は上部に櫓(やぐら)を乗せる独立した櫓門だが,江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた.
枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで,青屋口の枡形は,二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形(でますがた)だった.
さらにその外側はかつて水堀となっていて,橋が架かっていた.
この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋(そろばんばし)で,非常時以外は引き入れたままになっていた.
「青屋」の名については,戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている. 
「戦跡めぐりと観光モデルコース」の「Aコ-ス」にある
③が「砲兵工廠跡碑」です.


お昼になったので野菜カレーをいただきました(*^-^*)
胃が小さくなっているのかな…美味しかったのに少し残しました…
今までだったら全部食べられる量なんだけど…
腸の出血以来,満腹にならないようにしています…
京橋駅爆撃被災者慰霊碑
1945(昭和20)年8月14日、B29爆撃機145機が大阪砲兵工廠に707トンの爆弾を投下した。1トン爆弾4発が国鉄(現JR)京橋駅に落ち、片町線ホームを1発が直撃した。悲惨さに衝撃を受けた大東市の森本栄一郎氏が1947(昭和22)年8月14日慰霊碑を建立。その後、仏尊像と納経塔を建立され、毎年8月14日に慰霊祭が行われている。
(「ピースおおさか」戦跡めぐりと観光モデルコースAコースの説明より)
帰宅して休んでいるとヘリコプターの音…
門真市方面から黒い煙(4時頃に撮しました)
かすかに臭いがします…
団長さんにメールすると「隣町で火事!」と返事が返ってきました.(5時頃に撮影)