2014年1月2日木曜日

大阪天満宮

今日は、大阪天満宮に初詣
着いたと思ったら…
入場制限…グルッと回って…
やっと境内に…
でもまだ遠い(°°;)

現在のご本殿は、天保14年(1843年)に再建された物です。
 この大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで七度もの火災に遭い、
なかでも大阪市中を焼き尽くした享保9年(1724年)の妙知焼けや、
大塩平八郎の乱による天保8年 (1837年)の大火では、全焼致しました。
その約6年後に、大阪市中の氏子や崇敬者又献身的な奉仕者によって、
現在のご本殿が再建されました。
本殿内も他のお社に見られるようなきらびやかさは見られませんが、
先の大東亜戦争にも焼けずに残ったのは、
氏子の方々が焼ける自分の家を横目に見ながら
「天神さんを焼いたらあかん」と守って下さったおかげです。
大阪天満宮HPより)

やっとお参りできました…
ネットで賽銭が飛んでこないように防いでいる中で
巫女さんから幸矢を授かっておられました。
大阪天満宮に初詣に来たのは、
姪が今年、看護師の国家試験を受けるからです(*^-^*)
母が買ったのは「天神さんの福来もち」(*^▽^*)
姪が絵馬を奉納している間に訪ねたのは「大将軍社」
大阪天満宮のHPによると
大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期にさかのぼります。
菅原道真公は、延喜元年(901年1月25日)、政治の上で敵対視されていた

藤原時平の策略により昌泰4年(901年)九州太宰府の
太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになりました。
菅公は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向いましたが、

2年後にわずか59歳でその生涯をとじました〔延喜3年(903年2月25日)〕。
その約50年後、天暦3年(949年)のある夜、

大将軍社の前に突然七本の松が生え、
夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったと言われます。
この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、

同地に勅命を以て鎮座されました。
この鳥居から帰らずに(*^ー゜)
白米稲荷を訪ねました。
狐の爪研ぎ石
白米稲荷社回廊の西北隅に、「狐の爪研ぎ石」と言いふるされている
高さ約1m、幅50cmの石がある。
いかにも狐が、その鋭い爪を立てて掻いたように、数条の穿溝が走っている。
「狐の爪研ぎ石」、何とも面白い表現である。
正しく言えば、大阪の玉造において出土した玉造石、勾玉、管玉を研いだものといわれる。

(さらに文章が続いているのですが…
てんま天神梅まつり散策と梅香席鑑賞」(PDF)を参照してください)
伏見稲荷大社を思い出しました(*^ー゜)
息苦しいだろうな…鼻の穴にお賽銭…「天保の石牛
奉納年がわかっている牛像の中では最も古いものです。
天保11年(1840)子霜月の奉納です。
奉納者の名前が台石のぐるりにずらーっと彫り込まれています。
南は天王寺村から北は天神筋町まで、実に多くの人々によて奉納されたことが分かります。
とくに島之内の店名や個人名が多く、仲居さんらしい名前も見られます。
奉納された天保11年といえば、当宮では、天保八年(1837)の大塩焼けで被災し、

社殿もまだ復興できていない時期でした。
(「てんま天神梅まつり散策と梅香席鑑賞」より)