2013年10月17日木曜日

大阪城

お腹が一杯になったので歩くことにしました…
生国魂(いくくにたま)神社お旅所跡
(前略)難波宮や大坂本願寺はここ大阪城の近くにあったことが知られており、
生国魂神社が古くよりこの辺りに祀られていたことがわかる。
その後豊臣秀吉、大阪城の築城に際して天王寺区生玉町の現在地に移築した。
当時大坂城大手門は、生玉門と呼ばれていたという。
この「お旅所」は昭和7年(1932)に新築されたものであり、夏祭の渡御祭に用いられた。
 (大阪市教育委員会)
(太文字は説明板などからの引用です。以下同じです)

 大手門(おおてもん)
城の正面を大手(追手【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。
現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。
正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、
親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】の間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。
屋根は本瓦葺【ほんがわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうててついたばり】とする。
開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。
親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継【ねつぎ】がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手【つぎて】は、
一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。
門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている。

大手口枡形(おおてぐちますがた)の巨石
枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の侵入を食い止める役割を果たした。
築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、
大阪城の大手口桝形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。
大手門をくぐって正面に位置する大手見付石【おおてみつけいし】は、
表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、
左の大手二番石【おおてにばんいし】は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、
右の大手三番石【おおてさんばんいし】は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、
いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島【しょうどしま】と推定されている。
現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、
元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、
石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。
この個所は当初肥後熊本藩加藤忠広【かとうただひろ】が築き、
のちに筑後久留米藩有馬豊氏【ありまとようじ】が改築した。

外国からの観光客も大勢おられました(*^-^*)
桜門枡形(さくらもんますがた)の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、
上部に多聞櫓【たもんやぐら】が建てられた。
この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、
備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、
石材は備前(岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。
正面の石は蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、
表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。
向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)とよばれ、
表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。
なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。


大阪城公園内に残る戦争の傷あと」という説明板に
大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)は、面積1.18平方キロの我が国最大規模の兵器工場であり、戦争末期には大阪本廠を含めた全工場で一般工員のほか動員学徒・女子挺身隊・一般徴用工員など64,000人が働いていました。その中には、当時の植民地支配下の強制連行などにより集められた1,300人以上と言われる朝鮮青年も含まれていました。
もと大阪市立博物館
もと大阪市立博物館の建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年に、
市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ、
大阪城天主閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、
第四師団司令部として建設されたものです。
外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、
壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。
戦後は大阪市警視庁として、またその後は大阪府警本部として使用されましたが、
内部を改装して、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
なお博物館は、「大阪歴史博物館」として、平成13年11月3日、大阪市中央区大手前4丁目に開
館しました。
久しぶりに天主閣に上がることにしました(*^-^*)

号砲
この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm
先込め式の旧式砲、材質は青銅の一種とみられる。
1863年、幕府の命令により、美作(みまさか)津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎(くだらせいじろう)らが製造し、
大坂天保山砲台の備砲として備え付けられ、
明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。
明治3年(1970)から時刻を知らせる号砲として用いられ、
はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内とどろきわたり、
「お城のドン」、「お午(ひる)のドン」の名で市民に親しまれた。
火薬節約その他の理由により大正12~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。
天主閣最上階からの眺め
眺めは素晴らしいのですが…
エレベーターは5階まで…8階まで徒歩。
下りは階段のみ(^0^;)
それでも見たかったのは…
3階であった史跡・重要文化財指定60周年記念 
特別展「大阪城はこの姿-戦災からの復興、整備、そして未来へ-」
天守閣の石垣。1トン爆弾でずれています。
このような場所は、 観光客は気がつかず通り過ぎていきます…
この凹んだ跡はなにかわかりますか
山里丸石垣(やまざとまるいしがき)の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、
機銃掃射によってついたものと推定される。
昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、
陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった。
山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、
北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

この場所も、多くの観光客は気がつきません…
秀頼・淀殿らの自刃の地
慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、
徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、
山里丸にあった櫓(やぐら)にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

砲兵工廠跡碑
「砲兵工廠跡」と刻まれた高さ1.5m、幅2mの花崗岩の記念碑。
1959(昭和34)年に、もと工廠従業員の親睦団体「大阪廠友会」が碑を立てた。
8月14日の最後の大空襲で最も多くの犠牲者を出した第3旋工場跡地に建てられていたが、1983(昭和58)年にここに移設された。
碑面裏には、砲兵工廠の沿革、概要が記されている。
JR京橋駅にある「京橋駅爆撃被災者慰霊碑」
1945(昭和20)年8月14日、B29爆撃機145機が大阪砲兵工廠に707トンの爆弾を投下した。1トン爆弾4発が国鉄(現JR)京橋駅に落ち、片町線ホームを1発が直撃した。悲惨さに衝撃を受けた大東市の森本栄一郎氏が1947(昭和22)年8月14日慰霊碑を建立。その後、仏尊像と納経塔を建立され、毎年8月14日に慰霊祭が行われている。